第03話 七十三歳、パンを焦がしました
「あらあら……クレアさん、どうしましょう。お窯から黒い煙が出てきましたわ」
エレノア様を町家にお迎えしてから三日後の、土曜日の朝だった。
台所から漂ってきた香ばしい匂いが、急に焦げ臭いものへと変わり、私が慌てて駆けつけると、エレノア様が火掻き棒を手に目を丸くしておられた。
鉄板を引き出してみれば、そこには見事なまでに表面が黒く炭化した丸パンが四つ並んでいる。七十三歳にして初めてご自分のために挑んだパン焼きは、火力が強すぎたらしい。
落胆されたのではないかと心配して顔を覗き込むと、エレノア様はふっと頬を緩め、おかしそうに声を上げて笑った。
「ふふ、真っ黒ね! でも、形はちゃんと丸いわ。最初のパンとしては、半分成功かしら」
「ええ、とても可愛らしい丸型です。残りの生地がございますから、今度は薪を少し奥へ寄せて、一緒に焼き直してみましょうか」
窯の小窓から見える火が弱まったところで、エレノア様に鉄板を差し込んでいただいた。今度は二人で窓を覗き、頃合いを待つ。二度目のパンは、少し歪んでいたけれど、きつね色に焼けた。
朝の光が差し込む居間の食卓で、私たちは温かい麦茶と焼きたてのパンを並べた。
食費と暖房費は半分ずつ。家賃はいただかない。引っ越し翌日にそう決め、二人で覚書に署名した。エレノア様の持つ配当収入で無理なく賄えると聞き、私も安心している。
焦げた部分を削り落とした最初のパンも一口かじりながら、エレノア様は机の上の布見本に指を滑らせた。
「ねえ、クレアさん。来週の火曜日は、私がこの居間の窓拭きを受け持ちますわね。それと、この南向きの窓には、やっぱりこの明るい黄色いカーテンを掛けたいの」
明るい黄色だ。エレノア様は端切れを窓にかざし、光の透け方を何度も確かめた。
朝食の片付けを終えた午前中、私は仕上げておいた書類の束を鞄に収め、近くの通りにある老舗の乾物問屋へと足を運んだ。以前から有償で請け負っていた、取引先への契約書控えと季節の礼状の代筆を納品するためだ。
「いつもながら、フェルナー様の文字は正確で読みやすい。おかげで先方との取引も滞りなく進みます」
帳場で一枚ずつ書面を確認した店主が、満足そうに頷いて革袋から銀貨を数え、私の前に置いた。
「ありがとうございます。こちらが本日の領収書でございます」
私は報酬を確かめ、領収書を手渡した。財布を閉じるとき、夜会での「小銭稼ぎ」という声を思い出した。今日受け取った銀貨で、今晩の食卓を整えられる。それで十分だった。
その日の午後、約束どおりの時刻に玄関の扉が叩かれた。
「ごめんください。修繕の見積書をお持ちしました」
扉を開けると、灰色の外套を着た長身の青年が立っていた。レオン様の脇には、見慣れた図面の筒と書類挟みがある。
居間へ案内してお茶をお出しすると、エレノア様が穏やかな声で口を開いた。
「レオン、わざわざありがとう。私が屋敷でしていた仕事のこと、知っていたのね」
不意の問いかけに、レオン様は茶碗へ伸ばしかけた手を止め、まっすぐに祖母の目を見返した。
「はい。帳簿を見ておられることは知っていました。でも、大変ではないかと、一度も聞きませんでした。……すみません」
一切の言い訳をせず、深い声で自身の沈黙の責任を認めた彼に、エレノア様は静かに首を振った。
「私も、何も言わなかったものね。今日はクレアさんの家を見てあげてちょうだい」
エレノア様が微笑むと、レオン様は張り詰めていた肩の力をわずかに抜き、改めて私の前に図面と見積書を広げた。
「では、屋根の瓦の差し替えと、二階の二基目の暖炉および煙突の補修案をご説明します。部材の等級や足場の組み方によって、三通りの見積もりを作成しました」
そこには材料費から職人の日当まで、一項目ずつ明朗な数字が並んでいた。私が数字の根拠を細かく目で追っていると、レオン様がふと控えめに言った。
「職人の人数を減らす案も考えましたが、それでは足場を組む日に無理が出ます」
「でしたら、人数はこのままで。削るとしたら、飾りのほうですね」
彼は見積書ではなく、私の顔へ目を上げた。
「……はい」
返事までに、小さな間があった。
「どの案にするか、またどこまで手を入れられるかは、家主であるフェルナー様ご自身でお選びください。決まるまでお待ちします」
彼は自分の意見を押しつけることなく、私が予算と必要な工事内容を照らし合わせて中間の標準案を選び取るまで、静かに待ってくれた。
「この標準案でお願いいたします。工期はいつ頃までになりますか?」
「来週から資材を入れ、二週間後の土曜日までにはすべて完了いたします」
レオン様が図面の該当箇所を指し示したとき、くるりと丸まりかけた紙の端を、私が反射的に押さえた。
紙を押さえる彼の指には、細かな傷があった。私の指と触れそうになると、彼は少し位置をずらした。触れなかったのに、私はその手から目を離すのが遅れた。
契約書に署名をしてレオン様を見送ったあと、町家には穏やかな夕暮れが訪れた。
二週間後には暖炉も屋根も直り、窓には黄色いカーテンが掛かる。そんな幸せな暮らしが確かに動き出したことを噛みしめていた矢先、小庭を眺めていたエレノア様がぽつりと呟いた。
「……そういえば、来週の半ばは屋敷の使用人たちの勤務簿を締める時期ね。春の市の業者さんへの連絡も、そろそろ重なる頃だけれど……」
「もう引き継いだ書類ですから、まずは家令に任せましょう」
そう答えた私の前で、エレノア様は布見本を重ね直した。ただ、黄色の端切れを置く手が、一度止まった。




