第02話 持ち出したのは、小さな裁縫箱
火曜日の朝、私は自分の町家の二階で、冷え切った煉瓦の暖炉を前に腕を組んでいた。
一階の暖炉は使えるが、二階の煙突は吸い込みが悪い。屋根には緩んだ瓦もある。エレノア様には一階の部屋を使っていただくとしても、直しておきたい箇所だった。
私は一階の机に戻ると、朝の光の中で三通の書簡を書き上げた。
一通目は、ギルバート様個人に宛てた契約書どおりの違約金、金貨四十枚の請求書だ。二通目は、領地にいる私の父、フェルナー伯爵へ宛てた婚約解消とエレノア様との同居を知らせる報告書である。
そして三通目は、建築監督のレオン・アシュバリー様へ。二十六歳、エレノア様の次男の息子で、ギルバート様の従兄にあたる。以前の修繕でいただいた見積もりは、材料と手間賃がきちんと分かれていた。今回も、正式に見積もりをお願いした。
三通の手紙を発送し終え、私は一階の部屋を丁寧に掃き清めて翌日に備えた。
翌水曜日の午前、私は辻馬車を雇い、町家から三十分ほど離れたアシュバリー侯爵家の王都邸へと向かった。
ギルバート様は外出中とのことで姿を見せず、玄関で私を迎えた家令に案内されてエレノア様の自室へ入ると、そこには意外なほど静かな光景が広がっていた。
「クレアさん、時間どおりに来てくださったのね」
部屋の真ん中には、着替えを詰めた旅行鞄がひとつ置かれているだけだった。五十年前にお輿入れした際の立派な婚礼家具や装飾品は、何ひとつ動かされていない。
傍らでは、この屋敷で三十年以上勤め上げてきた六十一歳の古参侍女、マルタが落ち着かない様子で立っていた。
「お待たせいたしました、エレノア様。馬車を待たせてありますので、残りの小物も手早くお包みしますね」
私は引っ越しの段取りを優先するあまり、長椅子に掛けられていた厚手の膝掛けと、卓上の小箱を勝手に風呂敷へ包もうとした。外の風はまだ冷たいし、少しでも早く運び出したほうがいいと考えたのだ。
「――待ってちょうだい、クレアさん」
ふいに、背後から穏やかだが芯のある声が掛かった。振り返ると、エレノア様が私の手元に視線を落とし、静かに首を振っておられた。
「お気遣いは嬉しいわ。けれど、この部屋から何を持っていき、何を置いていくかは、私自身の手で選びたいの。あの膝掛けも小箱も、侯爵家の大奥様として誂えた品だから、ここへ残していきます」
「あっ……申し訳ございません。私、良かれと思って勝手に……」
私はほどきかけた風呂敷を広げ直し、小箱を元の位置へ戻した。
「いいのよ。選ぶのが遅くて、馬車を待たせてしまうわね」
エレノア様は柔らかく微笑むと、ご自分の手で鏡台の引き出しを開けた。そこから取り出したのは、使い込まれた小さな木の裁縫箱と、亡き前侯爵様やご家族が写った小さな写真立てだけだった。
「お輿入れのときに実家から持ってきたこの裁縫箱と、この写真。それと、私個人の預金や国債の証書はもう鞄に収めました。私が町家へ持ち出すのは、これだけです」
「お、大奥様……本当にそれだけでよろしいのですか?」
たまらず声を上げたのは、侍女のマルタだった。マルタはエレノア様の旅行鞄に手を伸ばし、今にも泣き出しそうな顔で眉を寄せた。
「町家には使用人もおらず、馬車も小さな辻馬車なのでしょう? 道中でお風邪を召されたら大変です。せめてお荷物を馬車まで運びますし、何なら私がこのままお供して身の回りのお世話を――」
「ありがとう、マルタ。あなたのお気持ちだけ、ありがたくいただいておくわね」
エレノア様はマルタの手からそっと自分の鞄を引き寄せた。
「でも、今日はお屋敷の仕事があるでしょう。家令から、明日から家政班を手伝ってほしいと言われたのではなかった?」
「それは……そうですが、大奥様がいらっしゃらなくなったら、私はこれから、どなたのために働けば……」
マルタはそこまで言って、はっとしたように唇を噛み、言葉に詰まった。三十年間、大奥様のためだけに手を動かしてきた彼女は、行き場を失った両手で自分の白いエプロンの端をぎゅっと握りしめている。エレノア様はその手を一度だけ優しく撫で、小さく頷いてから部屋を出た。
一階の玄関ホールへ降りると、エレノア様は待ち構えていた家令の前に立ち止まった。
そして、侯爵家の部屋の鍵束とともに、綺麗に整理された二冊の書類綴りを差し出した。
「家令、これが使用人の勤務簿と給与明細の照合記録、それと春の慈善市の納期工程表です。先月分までの控えはすべて揃っていますから、引き継ぎますよ」
「は、はい……。恐れ入りますが、大奥様。お気持ちが落ち着かれましたら、いつ頃お屋敷へお戻りになられますでしょうか」
恐る恐る尋ねる家令に、エレノア様は背筋をすっと伸ばして答えた。
「いつ戻るか、ではありませんよ。この屋敷へ戻るかどうか自体を、これからは私が自分で決めます」
凛とした宣言に、家令は息を呑み、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました。領地の旦那様と奥様にも、こちらからご報告いたします」
「ええ、構いませんよ。事実をありのままに伝えてちょうだい」
馬車に揺られること三十分。王都外縁の私の町家へ到着すると、ちょうど昼前の柔らかな日差しが南向きの窓と小さな庭を照らしていた。
「まあ……なんて明るい窓辺かしら!」
玄関を上がったエレノア様は、少女のように目を輝かせて居間を見回し、そのまま奥の小さな台所へと足を向けた。ずらりと並んだ鍋や小さな焼き窯を目にすると、七十三歳の大奥様は嬉しそうに両手を合わせた。
「素敵だわ、クレアさん。私、ずっと自分の手で台所に立ってみたかったの。土曜日の朝は、私がパンを焼いてみますわね!」
「えっ、エレノア様が、ですか?」
「では、明日は粉と薪を買いに行きましょう」
「ええ。火加減を教えてちょうだいね。粉を買う店も、私が知らないのですもの」
空だった台所の棚に、エレノア様が裁縫箱を仮置きした。私は隣に、買い物用の籠を並べた。




