第30話 この先も、あなたと
「クレア。父から契約書が戻りました。工房を、週二日使うことにしました」
火曜日の午後、レオンは封筒から書面を出した。署名のある下の端が、少しだけ折れていた。何度も確かめたのだろう。
エレノア様は昼過ぎから「土曜日の会でお出しする紅茶の葉を、マルタさんと一緒に大通りの茶葉舗へ見に行ってくるわね」と出かけておられ、静かな居間には私たち二人だけがいる。窓の外の小庭では、先週の金曜日にレオンが有償の仕事として頑丈な金具で固定してくださった風よけの支柱が、初夏の南風の中で頼もしく立っていた。
レオンは鞄から、お父上の署名と捺印が入った正式な契約書の控えと、一枚の週間工程表を取り出して卓の上に広げた。
「火曜と金曜は隣町で、ほかの日は王都にいます。今の事務所は引き払いません」
私は卓上に広げられた書面に目を落とした。
そこには、週二日の工房使用料と修繕積立金の分担額、火曜と金曜に隣町の工房で行う大型木材の加工や大図面の作成業務、そして水曜・木曜・土曜に王都の現行事務所を拠点として回る現場監督業務の日程が、無理のない移動時間で明確に組み上げられていた。
「図書館は、先日引き渡しを終えました。次に打診されていた梁の補強設計も、正式に受けられました。使用料は父と手紙で相談して、この額です。支払いが入るまでの蓄えも残せます」
レオンの言葉には、以前、私を気遣って一人で断りの下書きを書いていたときのような翳りは微塵もなかった。
「よかった。あの製図室が、空いたままにならなくて」
私が心からの敬意を込めて頷くと、レオンは契約書の控えを丁寧に揃え、脇へと置いた。
それから彼は椅子を少し寄せ、窓辺の光の中で私を見た。
「この前、図面を見せたとき、働くところを見たいと言ってくれましたね」
レオンの低く穏やかな声が、静かな部屋に響く。
「あのとき、クレアと会えなくなるから断ろうとしたのが、急に惜しくなりました。一緒に先の話ができるのに、どうして一人で終わらせようとしたのかと」
レオンは卓の上で、現場の傷が刻まれたご自分の右手をそっと差し出し、掌を上にして開いた。
「クレア。会える日を探すのも、帰ってから今日の話をするのも、この先ずっと、あなたとしたいです。……私と、結婚してください」
答えようとしても、声がすぐには出なかった。唇を結び直すと、彼の顔がぼやけた。
私は差し出された彼の手を見つめ、浮かび上がる大きな喜びとともに、今自分の胸にある正直な気持ちも隠さずに言葉にした。
「……嬉しい。レオン、私、嬉しいです」
私は胸元に片手を当て、少しだけ震える声で続けた。
「でも、忙しくなったら、また遠慮してしまうかもしれません。寂しいと、うまく言えない日も」
レオンは私の言葉が終わるまで待ち、ゆっくり頷いた。
「私も、また黙りたくなるかもしれません。でも、思い出します。あの夜、言ってよかったことを」
その誠実な答えを聞いたとき、私の視線は自然と窓の向こうの小庭へと向かっていた。
黄色いカーテンの向こうで、初夏の風に揺れる色とりどりの花壇が見える。
「……あの花壇にまだ苗が一つも植わっていなかった頃、あなたは二階の煙突を直すために、まだ形になっていない私たちの望みを踏まないよう、足場を組み替えて守ってくださいましたね」
レオンも窓の外へ目をやった。あの足場を組んだ場所は、今、雛菊で見えなくなっている。
「あのときは、まだ何も植えていなかったのに。……はい、レオン。あなたと結婚したいです」
私は自分の右手を伸ばし、卓の上に差し出されていたレオンの大きな掌の上に、しっかりと重ねた。
レオンの長い指が、私の手を温かく包み込む。
彼が立ち上がり、私も椅子から離れた。近づくと、抱き寄せる腕が少し震えていた。私も背中へ腕を回し、上着を握った。
「婚約者、と呼んでもいいのですね」
「ええ。でも、今は名前で」
彼がクレアと呼んだ。私は返事の代わりに、その頬へ唇を寄せた。
離れると、彼の上着の肩に、私の握った皺が残っていた。指で伸ばしかけたところへ、レオンの手が重なる。
「そのままでいいです」
「でも、帰り道で人に会ったら」
「上着を少し直せば済みます」
彼が笑ったので、私も笑ってしまった。ようやく息を大きく吸えた気がした。レオンは机の上の契約書へ目をやったが、取りに行かなかった。
「今日の仕事の話は、もう終わりです」
「では、もう少しだけ」
私は彼の袖をつまんだ。今度は皺が残らないほどの力だった。彼はその手を見てから、もう一度、私の名前を呼んだ。
私は彼の上着から手を離したが、すぐには机へ戻らなかった。婚約者という言葉を思い浮かべるたび、目の前の顔を確かめたくなった。
しばらくして机へ戻り、私は父への報告を書いた。結婚の日も、同居を始める日も、これから決める。今は、婚約したことを伝えたかった。
婚約破棄と町家での同居を報告した際、「成人した娘の判断を尊重する」と温かい返書をくれた父だ。事前の許可を婚約の条件にはしなかったが、大切な決定だからこそ、今日のうちに私自身の言葉で伝えたかった。
『お父様。本日、独立して建築監督の仕事をしておられるレオン・アシュバリー様と、お互いの意思で正式に婚約いたしました。私の会計や代筆の仕事も、お母様から受け継いだこの町家の所有もそのまま守りながら、二人で力を合わせて将来の準備を進めてまいります』
レオンも一筆添えた。領地への手紙は片道に三日ほどかかるので、土曜日の茶会には父の返事は間に合わない。便箋の余白へ、私は今度一緒に領地を訪ねたいと書いた。
表の郵便受けから定期便の使いに手紙を託して戻ってくると、ちょうど買い物かごを提げたエレノア様が「ただいま、とても香りのいい初摘みの紅茶が買えたわよ!」と上機嫌で帰宅された。
居間でレオンと私が並んで立ち、本日、彼の仕事拠点の契約がまとまったこと、そして二人で正式に婚約したことをご報告すると、エレノア様はかごを卓に置いて両手を頬に当てた。
「まあ……! レオン、クレアさん、本当なのね!? おめでとう、本当に嬉しいわ!」
エレノア様は私たちの手を交互に握り、目を細めて心から祝福してくださった。
「ありがとうございます。土曜日のお茶会も、二人で楽しみにしています」
レオンが言うと、私も頷いた。
「お花の名前を、皆さんに教えて差し上げてくださいね。私たちも楽しみにしています」
「ふふ、ありがとう、二人とも。そうね、土曜日は私が主役の小さな庭のお茶会として、皆をびっくりさせてあげましょう!」
エレノア様は買ってきた茶葉を棚へ置き、六枚の布の名札を確かめた。レオンの名札の横に、私の名がある。
「この席のままで、いいかしら」
私たちは顔を見合わせ、揃って頷いた。




