第26話 黙って断ろうとしたのは、あなたの方
「クレア、こんばんは。父からの条件書と、私が書いた返事を持ってきました」
月曜日の夕方、レオンは書類を胸元に抱えて来た。居間へ上がる前に、鞄の留め具を二度確かめた。
エレノア様は「今夜はあなたたち二人の大切なお話があるでしょうから、私は一階の部屋で本を読んでいるわね」と気を利かせて早めに自室へ下がってくださり、黄色いカーテンが閉められた居間には、ランプの柔らかい光と私たち二人だけがあった。
私は温かい紅茶を卓に並べ、レオンの向かいに腰を下ろした。
「ありがとうございます、レオン。まずは、お父上から届いた利用条件書を一緒に拝見してもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです。こちらが昨日の日曜日に届いた書面です」
レオンが鞄から取り出して広げたのは、お父上の几帳面な筆跡で書かれた三枚の条件書と、建物の簡易な平面図だった。
使用料と修繕積立金は、使う日数や面積に応じて払う。一棟すべてを買い取る必要はない。その欄を確かめてから、平面図の南の窓へ指を移した。
水曜日、レオンが両手を広げていた製図室だ。壁までの線を辿ると、あの卓では足りなかった広さが、少しわかった。
「……すごく立派な設備ですね。大きな木材の検品も製図も一箇所でできて、お父上の条件も本当に筋が通っています」
私が感嘆して顔を上げると、レオンは平面図の製図室のあたりに一度だけ惜しむような視線を落とし、それからすぐに鞄の中からもう一枚の便箋を取り出した。
「はい、父の配慮には感謝しています。……その上で、こちらが昨日の夜、私が自分で書いてみた父への返信案の下書きです。クレアにも見ていただきたくて持って参りました」
私はその便箋を受け取り、ランプの光の下で文字を追った――そして、数行読んだところで息を呑んだ。
そこには、『せっかくのありがたい申し出だが、現在の王都中央の事務所での仕事と生活を優先したいため、隣町の工房兼住居の利用については今回はすべて辞退する』という、全面的な断りの文面が迷いのない丁寧な文字で綴られていたのだ。
居間に、時計の針が刻む音だけが静かに響いた。
私は下書きの便箋をそっと卓の上に戻し、向かいに座るレオンの顔をまっすぐに見つめた。
「レオン。これほど魅力的なお仕事の可能性が目の前にあるのに……あなたは私に相談する前に、ご自分一人でこのお話を全部断ろうとしていたのですね」
「それは……先週の水曜日にも申し上げたとおり、もし私が隣町へ拠点を移せば、この町家から片道九十分の距離になってしまいます。今の図書館の週三日の現場だけでも、クレアに寂しい思いをさせているのに、これ以上あなたとの距離を遠くするわけにはいかないと考えたのです」
穏やかに微笑もうとするレオンの瞳は、どこか自分の気持ちに蓋をしているように揺れていた。
便箋の端を押さえた。綺麗に揃った辞退の文字から目を離し、彼に告げた。
「私は、寂しいと言いました。でも、工房を諦めてほしいとは、言っていません。どうして、そこまで一人で決めようとしたの?」
私の言葉に、レオンがハッとしたように目を見張った。
「私のためなら、なおさら聞かせてください。私がこの手紙を見て、喜ぶと思ったのですか」
「クレア……」
「本当は、あの工房をどう使いたいの?」
レオンは卓上の下書きの端に指をかけ、しばらくの間、自分の内側にある葛藤と戦うように唇を固く結んでいた。現場仕事で傷のついた大きな手が、便箋の上でわずかに震える。
やがて彼は、深く長い息を吐き出すと、これまで見せたことのないほど切実で、真っ直ぐな熱を帯びた瞳を上げて私を見た。
「……本当は、諦めたくありません」
低く絞り出されたその一言に、部屋の空気がぴんと張り詰めた。
「図書館の古い屋根の架構を直しながら、自分の手で大きな木材を組み、もっと本格的な建築や改修の設計に挑戦したいという思いが、日に日に強くなっていました。父のあの工房の製図室と加工場があれば、今まで場所がなくて断っていた仕事も引き受けられるようになります。……あなたから遠くなるのが怖くて、自分で断りの手紙を書きながら、本当は、仕事の可能性をどうしても捨てたくないとずっと思っていました」
それを聞いた瞬間、私の胸には悲しみではなく、ようやく彼が私に本当の心を見せてくれたという深い喜びが込み上げた。
「……教えてくださって、ありがとうございます。あなたがそう仰ってくださって、本当に嬉しいです」
私は微笑み、それから今度は私自身が、先週の水曜日に飲み込んでいた自分の本当の希望を隠さずに言葉にした。
「では、私も正直にお伝えしますね。私も、二十歳のときに亡き母から受け継ぎ、お祖母様と一緒に暮らしを整えてきたこの町家を離れたくありません。ここで会計や代筆の仕事を続けたいと思っています。そして同時に……恋人のあなたが隣町へ全面的に移ってしまって、いつも片道九十分も離れた場所にいるようになるのも、やっぱり嫌ですし、寂しいです」
「え……?」
私が「町家を離れたくない」「あなたが遠くなるのも寂しい」とはっきり口にすると、レオンは驚いたように目を瞬かせ、それからふっと肩の力を抜いて小さく笑った。
「……どちらかを黙って諦めれば済む、と思っていました。済みませんでしたね」
「はい。私だって、寂しくないふりをしていましたから」
私は卓上の全面辞退の下書きを脇へ寄せ、代わりに真っ白な計算用紙を一枚広げてペンを取った。
レオンが条件書を引き寄せた。
「日数に応じて借りられるとあります。王都の事務所を残せるか、費用を出してみます。移動する日も」
私は空いた紙に、自分の納期を書いた。
「私はここで仕事を続けたい。その予定は、隠しません」
レオンは私の手元の紙を覗き込み、頷いた。
「なるほど……。王都の事務所をすぐに引き払うのではなく、曜日を区切って利用する方法や、移動時間の無理のない配分を計算してみれば、中間の選択肢が見つかるかもしれません」
「では、木曜日にもう一度。私は家と仕事の予定をまとめておきます」
「はい。今度は、断るための下書きではなく」
レオンは、自分が書いてきた全面辞退の下書きを自らの手で二つに折り、鞄の奥へとしまい込んだ。
「まだ、諦めないでください」
私が言うと、レオンは鞄の蓋を押さえた。
「諦めません。クレアと会うことも、仕事も」
私は彼の肩へ額を寄せた。今夜、答えは出なかった。それでも、さっきより近くにいられた。




