第25話 帰る場所を、別々に守る
「染物工房の本店との出張経費も、これで精算完了、と。……よし、来週からは紹介していただいた薬種問屋さんの月次帳簿に取りかかれるわ」
水曜日の午後、私は出張の領収書を綴じ、新しい依頼状と入れ替えた。
先週の一泊二日の出張で隣町の事業所の在庫不一致を期日どおりに解決したことで、私の実務への評価はさらに広がり、今日は本店の主人から別のお得意様を紹介していただいたばかりだった。自分の腕で仕事をつなぎ、この町家での暮らしを確かに守れている充実感が胸にある。
やがて夕方の鐘が鳴り、一階へ降りてお茶の支度をしていると、約束どおり玄関の扉が控えめに叩かれた。エレノア様はちょうど三時過ぎから「マルタさんのところで夏物の布地を見せてもらうわね」とお隣の離れへ出かけておられ、家の中は私一人だった。
「お帰りなさいませ、レオン。隣町の図書館の現場からお疲れ様でした」
「ただいま戻りました、クレア。今日もお時間をいただきありがとうございます」
黄色いカーテンが夕日を透かす居間で、向かい合って椅子に腰を下ろした。レオンが紅茶の湯気に顔を寄せ、上着の襟を少し緩める。
私は自分のカップを持ったまま、その顔を見ていた。川辺で会ったのは、まだ三日前なのに。
「……何か、ついていますか?」
「いいえ。手紙より、よくわかると思って」
言ってから、もう少し別の答えがあったはずだと思った。レオンは笑い、茶碗を持ち直した。
「私も、見ていました。クレアの顔を」
今度は、お茶を飲んで目を伏せた。待っていた人が同じ卓にいる。それだけで、慌ただしかった午後のことを順に話せそうだった。
「先ほど階段の下で、新しい帳面の束が見えました。出張の精算も無事に終わって、また次のお仕事が決まったのですね」
「はい。染物工房のご主人が、知り合いの薬種問屋さんを紹介してくださったのです。レオンの方も、図書館の大屋根の工事は順調ですか?」
「ええ、瓦の葺き替えが半分ほど進み、今のところは工程どおりです。ただ……」
レオンはそこで言葉を区切り、茶碗を持ったまま少しだけ寂しそうに目元を伏せた。
「お互いの仕事が順調に広がっているのは、本当に誇らしくて嬉しいことなのですが……こうして私の現場が遠くなり、クレアのご依頼も増えるにつれて、二人の仕事の時間が少しずつずれていくのを肌で感じています。日曜日に川辺でお会いできたばかりなのに、平日にこうして顔を合わせる時間が減っているのが、正直に言えばとても寂しいのです」
私は膝に置いた手を見た。月曜日も火曜日も、帳簿を閉じると、玄関の音を待っていた。彼も、同じように思う時間があったのだ。
「……私も、同じ気持ちです。仕事に集中しているときは夢中なのですが、夕方になってペンを置いたとき、以前のようにあなたがふらりと立ち寄ってくださるには隣町は遠すぎるのだと気づいて、少しだけ部屋が広く感じられました」
私が素直に答えると、レオンは安堵と苦しさが混じったような表情で頷き、上着の内ポケットから一通の厚手の封書を取り出して卓の上に置いた。
「日曜日の別れ際に、私たちのこれからの仕事と住まいの将来についてご相談したいと申し上げたのは、まさにその距離に関わるお話なのです」
レオンは封書の差出人名を私に見えるように向けた。そこには、別領地で暮らしているレオンのお父上――エレノア様の次男にあたる方の名前が記されていた。
「父が昔使っていた工房を、私も借りないかという話です。隣町にあり、今は空いています。図書館の改修を請け負ったと聞いて、声をかけてくれました」
「お父上が所有しておられる隣町の工房、ですか……。そこは、どんな場所なのですか?」
「製図室の窓が大きいのです。資材置き場もあって、二階には住める部屋がある。昔、一度だけ見ましたが」
レオンは卓の上で両手を広げかけ、カップの手前で止めた。
「今の事務所では、図面を二枚広げるだけで、ほかのものを片付けなくてはなりません。あそこなら、梁の加工までできます。場所がなくて断った仕事も、引き受けられるかもしれない」
話すうちに、彼の手が何度も卓の端まで動いた。私はカップを寄せ、続きを聞いた。
けれど、そこまで語ったところで、レオンの声からすっと熱が消え、代わりに深い迷いの影が落ちた。
「……ただ、全部移すとなると、ここまでの道が、二十五分から九十分になります。今より、会いに来にくくなる」
カップを寄せて空けた卓へ、彼が手を戻した。さっきまで指していた製図室の広さが、急に私たちの間へ入ったように思えた。
図書館の工事だけなら、一か月を待てばいい。工房に住むようになったら、いつまで待つのかも決まっていない。
カップを口元へ上げかけ、飲めずに戻した。皿に当たった音だけが、思ったより大きかった。
私にとってこの町家は、亡き母から二十歳で受け継ぎ、自分の仕事部屋を整え、エレノア様と黄色いカーテンや花壇を作ってきたかけがえのない「帰る場所」だ。私はこの町家を手放したくないし、ここから離れたくもない。そして同時に、恋人であるレオンにも、馬車で九十分もかかる遠い場所へ行ってほしくないという切実な願いが込み上げてきた。
けれど、先ほど「場所がなくて断った仕事も、引き受けられるかもしれない」と目を輝かせていた彼の横顔を思い出すと、『遠くへ行かないでほしい』という言葉がどうしても私の唇から出てこなかった。それを言ってしまえば、私の都合で彼の建築監督としての大切な未来を縛ってしまうような気がしたからだ。
すると向かいに座るレオンも、私の揺れる視線に気づいたように、自分の気持ちをぐっと飲み込むような顔をして手紙を封筒へ戻した。
「……もちろん、今日この場で結論を出すつもりはございません。父からは、今週末までに賃料や管理費などの具体的な利用条件をまとめた詳しい書面がもう一通届く手はずになっています」
レオンは努めて穏やかな声を作り、私に提案した。
「月曜日の夕方、また来てもいいですか。利用条件と、私が考えた返事を持ってきます」
「はい。月曜日も、ここで待っています」
やがてお隣から戻られたエレノア様が、レオンに声をかけた。彼は挨拶を返してから、書類を鞄へしまった。
玄関で外套を着る彼を、私は扉の内側で待った。
「帰りの馬車は、もう来ますか」
「もう少し後です」
その返事を聞いて、私は彼の手に触れた。レオンは鞄を持ち替え、指を重ねてくれた。何も話さないまま、表を馬車が一台通り過ぎた。
今夜は、まだここにいてくれる。握った指の温かさを確かめるうちに、言いそびれた言葉ばかり増えた。
それから、レオンは王都の事務所へ帰っていった。
玄関の扉を閉めたあと、私は夕闇の迫る居間で一人、黄色いカーテンにそっと手を触れた。
工房の製図室を話すときには、あんなに速く言葉が出ていた。帰り際には、返信を用意するとだけ言った。
私は窓から、自分の花壇を見た。ここを離れたくない。でも、彼の顔からあの嬉しそうな色が消えるのも、見たくなかった。
月曜日には、どちらも話さなくては。




