第22話 私が行かなければ、お祖母様は?
「フェルナー様。先日の本店の帳簿整理があまりに見事だったものですから、ぜひ明後日の金曜日から土曜日までの一泊二日で、隣町にあるうちの事業所へ出張して帳簿と在庫記録の照合をお願いしたいのです」
水曜日の午前、染物工房の番頭が依頼書を持ってきた。
書面には、二日間の調査に対する十分な特別報酬に加え、往復の乗合馬車の手配、事業所近くの指定旅宿の宿泊費の全額負担、そして「先月分の反物在庫と出納帳の不一致箇所の特定まで」という明確な契約範囲が記されていた。
土曜日の夜には帰れる。延期したレオンとの散歩にも間に合う。
それなのに、契約書を見つめる私の口からは、すぐには承諾の言葉が出てこなかった。
「一泊二日……でございますね。明後日の金曜日の朝に出発して、土曜日の夜に戻る、と……」
私の頭に真っ先に浮かんだのは、この町家に一晩お一人で残ることになる、七十三歳のエレノア様の姿だった。これまで日帰りで数時間家を空けることはあっても、夜を越えて家を留守にしたことは一度もない。
「急なお話ですので、本日のお昼過ぎにまたお返事を伺いに参ります」と番頭が席を立ったあと、私は居間の机の前でペンを持ったまま固まってしまった。
小庭から戻ってきたエレノア様が、台所で手を洗いながら明るく声をかけてくださった。
「クレアさん、染物工房の方からのお話は終わったかしら? ずいぶん熱心に頼まれていたようだけれど」
「一泊二日で、帳簿を見てほしいそうです。引き受けたいのですが……」
一人になるエレノア様が気になった。断りの便箋を取りかけ、手を止める。まだ、彼女に一言も尋ねていない。
「金曜日の晩は、家を空けても大丈夫でしょうか」
「ええ。何か予定があるわけではないもの。私のことが気になるのね?」
「はい。一晩留守にするのは、初めてなので」
私が答えると、エレノア様は満足そうに目元を綻ばせた。
「でしたら、私の夕食は私が考えます。あなたは、向こうの宿を確かめてちょうだい」
エレノア様は背筋を伸ばし、黄色いカーテンが揺れる窓辺と台所を交互に示した。
「昼間のパン焼きや簡単な煮込み料理なら、もう私一人で問題なく作れるわ。近所の八百屋さんや小間物屋へ歩いて買い物に行くのも、いつもの日課でしょう? 夜の戸締まりだって、一階の雨戸と玄関の鍵を確かめるだけだもの、留守番くらい立派にできるわよ」
そしてエレノア様は、隣の家の方をちらりと見て微笑んだ。
「何かあれば、マルタさんに都合を聞くわ。急なことなら隣家の家主さんにも頼めるでしょう。あなたの宿にも、知らせを送れるようにしておきましょうね」
「……ありがとうございます、エレノア様!」
私はすぐさま白紙の便箋に『ご提示いただいた条件にて、金曜日からの一泊二日の出張を正式にお引き受けいたします』と承諾の返書を書き上げ、昼過ぎに再び訪れた工房の番頭へと手渡した。
その日の午後、私は番頭から受け取った隣町の事業所の所在地と、工房側が手配してくれた指定旅宿『白樺亭』の住所および連絡先を二枚の紙に綺麗に書き写した。一枚は居間のエレノア様へお渡しし、もう一枚はお隣の離れで針仕事をしていたマルタさんへ手渡して、金曜日から土曜日の夜まで留守にすることだけを共有しておいた。
そして夕暮れ時、隣町の図書館現場から王都へ戻ってきたレオンが、事務所へ帰る前に町家の玄関先へ短く顔を出してくださった。
「クレア、本日の屋根下地の検査も順調に終わりました。……おや、なんだかとても晴れやかなお顔をされていますね」
「ええ。実は今日、染物工房から明後日の金曜日と土曜日の一泊二日で、隣町の事業所へ帳簿照合の出張をご依頼いただきまして、正式にお引き受けすることにしたのです」
私が報告し、予備に書いておいた宿泊先の『白樺亭』の住所メモを差し出すと、レオンは目を丸くしたあと、自分のことのように顔をほころばせた。
「隣町の事業所への出張ですか! 本店の帳簿だけでなく、支所の在庫照合まで任されるなんて、クレアのこれまでの正確な仕事ぶりが認められた何よりの証ですね。本当におめでとうございます」
「土曜日の夜には戻ります。日曜日の散歩には、間に合います」
「はい。土曜日の夜はお疲れでしょうからゆっくり休んでいただいて、日曜日の夕方に、石橋のたもとでお会いできるのを心から楽しみにしています」
レオンは私が渡した旅宿の住所メモを、大切な宝物のようにご自分の胸ポケットへと丁寧に収めた。
翌木曜日のうちに、私は出張に持っていく算盤や検算用の帳面、一泊分の着替えを革鞄に整えた。
旅鞄の奥に、小さな裁縫道具も入れた。エレノア様が貸してくださったものだ。
「使わずに済んでも、持っていると安心するのよ」
私は留め具を閉じた。明朝は、見送られる側になる。




