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婚約破棄の慰謝料は、あなたのお祖母様でお願いします【連載版】  作者: 他力本願寺


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第20話 元侍女マルタ、部屋を借ります

「大奥様、クレア様、レオン様! 今朝、最後の勤務を終え、後任の侍女への引き継ぎも済ませました。お給金と諸手当の清算も終え、正式に退職して参りました。そしてたった今、お隣の家主さんと私の名前で本契約を交わし、この離れの鍵を受け取りました!」


 金曜日の昼前、マルタが真新しい真鍮の鍵を掲げた。日差しを受けて、鍵の先だけが白く光った。


 私たちの町家のすぐ隣にある平屋の離れの前には、王都邸の侍女部屋からマルタの私物を積んできた荷馬車が一台止まっている。三十年以上も誰かの屋敷の一室で暮らしてきた彼女が、今日から自分の名義で家賃を払う「一人の賃借人」になったのだ。


「おめでとう、マルタ! 私は何を運びましょう」


 エレノア様が袖をまくった。マルタは柳の籠を差し出した。


「では、帽子をお願いします。箪笥は運送人さんが」


「まあ、軽い。私の帽子よりも少ないのね」


「これから、少しずつ増やしてもいいのですね」


 二人が笑っている間に、レオンが運送人たちのために門を開いた。


 マルタは運送人の男性たちに「この小箪笥と寝台の枠を、奥の壁際へお願いします」と依頼主としてハキハキと指示を出した。


 重い荷物は運送人が運び、エレノア様は日傘と帽子が入った軽い柳のかごを、私は大切な裁縫箱を、そしてマルタ自身はお気に入りの茶器を包んだ風呂敷を抱えて、明るい日差しの差し込む離れの室内へと足を踏み入れた。


 こぢんまりとした一間の離れは、風通しの良い窓と小さな流し台がついた、清潔で可愛らしい部屋だった。


 運送人たちが家具を据え付けて帰ったあと、窓辺に小さな作業机を置いたマルタは、自分が契約した自分の部屋の真ん中で、信じられないといったようにぐるりと周囲を見渡した。


「……ここが、今日から私の部屋なのですね。誰の呼び鈴も鳴らない、私だけの場所……」


 ぽつりと呟いたマルタの目元がじんわりと潤む。


 やがて正午の鐘が鳴り、私たちはマルタを招いて、隣の私たちの町家の居間で退職と引っ越しを祝う昼食の席を設けた。


 卓の上には、私が朝から仕込んでおいた鶏肉と春野菜の煮込みと、エレノア様が焼いた丸パン、そしてレオンが差し入れてくださった果物のタルトが並んでいる。


「マルタさん、改めてご退職とお引っ越し、おめでとうございます。先日お見積もりをお願いした私の二階の古いカーテン二枚ですが、来週の月曜日にお渡ししますね。お約束どおり、最初のお仕事としてよろしくお願いいたします」


「はい、クレア様! まずはクレア様のカーテンを丁寧に仕立て直し、その後は、お休みの日にご挨拶をしておいた近所の呉服屋さんから、月に数枚だけ裾上げや寸法直しの有償のお仕事を少しずつ請け負うことになっております。無理のない範囲で、私の針仕事を続けてまいります」


 マルタが自分の席の前に立ち、いつもの癖で全員のお茶を注ごうと急須に手を伸ばしたとき、エレノア様がその手を優しく制して椅子を示した。


「座ってちょうだい、マルタ。今日の主役はあなたなのよ。そしてね、これからのことで一つだけ、私からお願いがあるの」


「なんでございましょう、大奥様?」


 背筋を伸ばして椅子に腰を下ろしたマルタに、エレノア様はいたずらっぽく、けれど真っ直ぐな瞳で微笑んだ。


「その『大奥様』という呼び方、今度は名前にしてみない? ここでは、エレノアと呼んでほしいの」


「えっ……! そ、そんな、三十年もお仕えしてきたお方を、お名前で呼ぶだなんて私の口からはとても……!」


 マルタは耳まで真っ赤にして、慌てて手を振った。


「すぐでなくてもいいわ。でも、一度聞いてみたいのよ」


「うう……で、では、その……エ、エレノア、様……」


「はい、マルタさん」


 エレノア様が応じると、マルタは顔を上げた。もう一度呼ぼうとして、今度は照れたように笑った。


 レオンが「マルタさん、新しい門出に乾杯しましょう」と果実水のグラスを掲げ、私たち四人はグラスを軽く打ち合わせた。


 食後、マルタは机に預けていた鍵を取り、何度も掌で裏返した。エレノア様が片付けを始めても、席を立たなかった。窓から見える自分の部屋を、まだ眺めていた。


「後任の子が、今朝、私の手順書に書き足していたのです」


 マルタは袖のボタンを触った。


「最初は、三十年使ったやり方なのにと思いました。でも、その子が迷うところは、私とは違いました。あの用紙も、私のもののまま残るわけではないのですね」


 エレノア様はパンを一つ、彼女の皿へ置いた。


「これからは、その子の手順書になるのね」


「はい。……その子があちらで直し、私はこの部屋でカーテンを直します」


 マルタは鍵を掌から机へ置いた。帰るたびに屋敷の許しを待たなくていい。そのことを思い出したように、食べかけのパンを取り直した。


 昼食を終え、マルタさんが「午後は自分の部屋の棚に布地を並べてみますね!」と弾んだ足取りで隣の離れへと戻っていったあと、居間には穏やかな午後の風が吹き抜けた。


 エレノア様が小庭の花壇へ水やりに出られると、卓の向かいに座るレオンが、懐から一通の封書を取り出して私の前に置いた。


「クレア。マルタさんの引っ越しが無事に済んで、本当に安心しましたね。……それで、水曜日の夕方に川辺で少しお話ししていた隣町の仕事の件なのですが、今朝、事務所に正式な依頼書が届きました」


「正式なご依頼が……!」


 私が顔を上げると、レオンは真剣な眼差しで頷いた。


「はい。隣町にある市立図書館の古い屋根の改修工事で、来週から約一か月の間、週に三日ほど現地へ通って現場監督を務める契約を結びました」


 この町家から隣町の図書館までは、馬車を乗り継いで片道およそ九十分かかる。これまで王都中央の事務所から二十五分ほどで駆けつけてくださっていたレオンにとって、片道九十分の現場を週に三日監督しながら他の王都の案件もこなすとなれば、今までのように仕事の帰りに気軽に町家へ立ち寄ったり、川辺で待ち合わせたりすることは難しくなる。


 川辺で初めてキスを交わしてから、まだ十日も経っていない。会うたびに、もう少し一緒にいたくなるところだった。


「とても大きな、やりがいのあるお仕事ですね、レオン。おめでとうございます」


 喜んだ声を出したつもりだったのに、レオンが封書を置いて私を見た。


「それでも、会いたいです。来週、予定を一緒に見ていただけますか」


 私は頷いた。その言葉を、私からも言いたかった。

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