第19話 言えなかった、近づきたいという気持ち
染物工房の帳簿を約束どおり火曜日に納品し、その翌日の夕方、私は、現場帰りのレオン様と待ち合わせて、王都の外縁を流れる川沿いの遊歩道を二人きりで歩いていた。
春の日差しはすっかり柔らかくなり、川面には茜色の空が映っていた。
不思議なことに、侯爵ご夫妻の前でも、大通りで出会ったバートン夫人の前でも、私はあんなに堂々と「レオン様は私の恋人です」と自分の口で告げることができた。それなのに、いざこうして周囲に誰の目もない夕暮れの川辺で二人きりになると、急に自分の手足の置き場が分からなくなったように胸が落ち着かず、私たちの肩の間にはいつもより半歩分の隙間が空いていた。
誰かに向かって立場を示す言葉ならいくらでも出てくるのに、目の前の恋人に自分が何を望んでいるのかを伝える言葉だけが、喉の奥につかえて出てこないのだ。
「……染物工房のご主人、今回の未収金の整理表を見てとても喜んでくださいました。来期の帳簿もぜひお願いしたいと仰っていただけて、ほっとしましたわ」
私は早鐘を打つ心臓の音を誤魔化すように、抱えた革鞄の上から自分の指先を組み、努めて普段どおりの弾んだ声で仕事の報告を口にした。
「それは何よりです。クレア様が最初に作業範囲と日数の筋を通されたからこそ、ご主人も仕事の本当の価値に納得されたのでしょう」
隣を歩くレオン様も、作業着の上から羽織った外套の裾を夕風に揺らしながら、穏やかな声で応じてくださる。
けれど、ふと横顔を見上げると、レオン様の視線もどこか前方の柳の並木へと向けられたままで、いつもなら自然に寄り添うはずの歩幅が、今日は妙にぎこちなく揃っていた。
やがて遊歩道が途切れ、辻馬車の乗り場がある大通りへと続く白い石橋のたもとに差しかかった。
ここで橋を渡れば、そのまま今日の短い逢瀬は終わってしまう。川面を渡る風が少しずつ夕方の涼しさを帯び始める中、私は橋の親柱の前で足を止め、レオン様へと向き直った。
「今日はお忙しい中、お時間を合わせてくださってありがとうございました。その……本日もお仕事、お疲れ様でした。また来週、ご連絡いたしますね」
口から滑り出たのは、まるで取引先の監督さんにご挨拶をするような、非の打ちどころのない丁寧な言葉だった。私は礼儀正しく頭を下げ、そのまま帰りの馬車乗り場の方へ一歩、後ろへと身を引いた。
石畳の上で、自分のかかとが乾いた音を立てる。
レオン様との距離がさらに一歩分開いたその瞬間、私の胸の奥がきゅうっと冷たく縮こまった。
――違う。私は今日、仕事の完了報告だけをして、こんな他人行儀な挨拶で別れたくて川辺へ来たのではない。
もう一度足を動かしかけたところで、私はぴたりと立ち止まった。
視線を上げると、レオン様もまた、去りかけた私を呼び止めることもできずにその場に立ち尽くし、少しだけ眉を寄せて私の手元を見つめていた。
私は鞄を握りしめたまま、一度離れたその一歩を、今度は自分自身の意思でゆっくりと踏み出し、レオン様の正面へと戻り入った。
「……ごめんなさい、レオン様。今の挨拶は、取り消させてください」
「クレア様……?」
驚いたように目を見張るレオン様を、私は逃げずに見上げた。夕焼けの光が彼の深い瞳を照らし、その中に小さく私の顔が映っている。
「ご家族の前や街の知人の前では、あんなにはっきりと『恋人です』と言えたのに、こうしてあなたと二人きりになると、急にどう振る舞えばいいのか分からなくなってしまって……。照れくささを隠すために、いつものお仕事の挨拶で帰ろうとしてしまいました」
自分の声がわずかに震えた。それでも、鞄の紐を握る手を緩め、続きを言った。
「本当は、まだ帰りたくありません。誰かに見せるための恋人としてではなく……今ここで、もっとあなたのそばに近づきたいと、そう思っていたのに、うまく言えなかったのです」
言い終えると、耳の先から首筋までが一気に熱くなった。
私の告白を聞いたレオン様は、しばらく息を呑んだように私を見つめていたが、やがて張り詰めていた肩の力を深く抜き、これまで見たことがないほど愛おしげに目元を細めた。
「……それを言えずにいたのは、私の方こそ同じです、クレア様」
レオン様が、静かに半歩前へと踏み出した。
先ほどまで空いていた二人の間の隙間が消え、彼の外套から漂う乾いた木の香りと、確かな体温がすぐ目の前に迫る。
「私も、もう少し触れたいと思っていました。でも、あなたはまだ、そうではないかもしれないと」
「あなたが今、ご自分の足で一歩戻って、近づきたいと言ってくださって……どれほど嬉しかったか分かりません」
レオン様の右手がゆっくりと持ち上がり、私の手を取るのではなく、私の頬のすぐそばで一度だけ静かに止まった。
そのまま触れてもいいかと尋ねるような、優しい間合いだった。彼の視線が私の瞳から唇へと落ち、また私の目へと戻る。
私は言葉の代わりに、自分の頬をほんのわずかに彼の掌の方へと寄せ、小さく頷いた。
次の瞬間、現場仕事で少し硬くなった彼の温かい指先が、私の頬から顎先へとそっと触れた。指先から伝わる熱に、私の背筋が甘く震える。
川辺の柳の枝が夕風にさらさらと揺れ、周囲の景色を柔らかく遮った。
レオン様の影がゆっくりと重なり、私は静かに瞼を閉じた。
触れた唇は、驚くほど温かく、そして優しかった。私は鞄の紐を握る指から、力が抜けていくのを感じた。
数秒だったのか、もっと長い時間だったのかも分からない。ゆっくりと唇が離れたあとも、レオン様はすぐには離れず、ご自分の額を私の額にそっと重ねたまま、深く静かな息を吐いた。
額を重ねたまま、私は彼の名前を呼ぼうとした。
「……レオン」
いつもの敬称が、つかなかった。慌てて目を開けると、彼は驚いた顔のまま笑った。
「もう一度、呼んでいただけますか」
「レオン。……二人のときは、そう呼んでも?」
「はい。私も、クレアと呼びたい」
同じ名前なのに、声が近くなった。私は頷いて、今度は自分から、ほんの短く唇を重ねた。
やがて夕日が川の向こうへ沈みかけ、街灯に火が灯り始める頃になって、私たちはようやく名残惜しそうに体を離した。
石橋を渡って大通りの馬車乗り場へと歩く道すがら、レオンは少しだけ照れたように口元を緩めたあと、ふと真剣な眼差しに戻って口を開いた。
「クレア。……仕事の話も、少し聞いてもらえますか」
「お仕事、ですか?」
「はい。まだ正式に決まったわけではないのですが、近く隣町で、古い建物の長期の補修案件を請ける可能性が出て参りました。もし引き受けることになれば、しばらくの間、週に何日か隣町の現場へ通うことになるかもしれません」
私の町家から隣町までは、馬車で片道九十分ほどの距離がある。もし彼がそちらの現場へ通うことになれば、今日のように仕事の帰りに川辺で待ち合わせることも、今よりずっと難しくなるはずだ。
「そうでしたのね……。事前に教えてくださってありがとうございます。正式にお話が決まったら、また聞かせてくださいね」
私は一抹の寂しさを覚えつつも、建築監督としての彼の大切な機会を尊重したくて、笑顔で頷いた。
辻馬車が来ても、私はすぐには乗らなかった。
「レオン」
「はい、クレア」
ただ名前を呼んだだけで、もう一度笑ってしまった。別れたあとも、窓から彼の姿を探した。




