第18話 お祖母様付きではなく、マルタとして
「大奥様、クレア様、夕暮れ時に突然お邪魔いたします! 本日の王都邸での勤務を終えて、どうしても今日のうちに一言だけご報告したくて走って参りました。私、先ほど家令へ正式に退職届を提出して参りました!」
マルタが十二日間の休暇を終えて王都邸へ帰任した週の、金曜日の夕方だった。
夕餉の支度を始めていた町家の玄関先で、休務時間の外出着に身を包んだマルタが、頬を上気させて立っていた。
少しだけ居間へ上がってもらうと、マルタは門限までの短い時間を惜しむように、今日王都邸で交わしたという家令とのやり取りを自分の言葉で語ってくれた。
「火曜日に宿から送った照会の手紙を、家令はとても丁寧に読んでくれておりました。今日の午後、執務室へ呼ばれましてね。家政班の後任については、来週から新しい侍女を一名採用する方針がすでに決まっているので、人手不足の心配はいらないと教えてくれたのです」
マルタは胸の前に両手を重ね、自分が職場でどのように扱われたかを一つずつ確かめるように続けた。
「その上で、今から二週間後の金曜日を最終勤務日として、それまでの期間で洗濯場の管理や繕い物の手順を後任へ引き継いでもらえれば、屋敷の規則どおり円満に退職できると説明を受けました。誰も私を裏切り者扱いなどせず、家令も『三十年以上、本当によく屋敷を支えてくれた』と労ってくれましてね。だから私、迷わずにその場で退職届に自分の名前を書いて、提出して参りました!」
「まあ、マルタ……! 自分の足で確かめて、自分の手で書いてきたのね」
エレノア様が目を細めて拍手を送ると、マルタは照れくさそうに、けれどこれまで見たことがないほど誇らしげに背筋を伸ばした。
「はい! 明日の土曜日はちょうど私の非番にあたりますので、休暇中に借りていた宿へ残りの私物を取りに行ったあと、またお昼前にこちらへ伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんよ。明日は時間を気にせず、ゆっくりお話ししましょうね」
私たちが頷くと、マルタは「では、明後日からの通常勤務に障らないよう、今夜は門限前に屋敷へ戻ります!」と元気よく一礼し、夕闇の降り始めた表通りへと帰っていった。
翌土曜日の午前、非番のマルタは、徒歩十五分の宿に預けていた残りの私物の包みを持って、招かれた客として町家を訪れた。
黄色いカーテンが揺れる居間でお茶を淹れたあと、私は二階の空き部屋から、亡き母の代に使っていた古い麻のカーテンを二枚抱えて降りてきた。
「マルタさん、今日は私から、カーテンの仕立て直しをご相談したいのです」
私が卓の上に淡い生成り色の布地を広げると、マルタは興味深そうに目を輝かせた。
「この古いカーテンなのですが、生地はまだしっかりしているものの、今の二階の窓には少し丈が長すぎて、裾の縫い目もほつれているのです。そこで、このカーテンを二階の窓に合う寸法に仕立て直す作業を、有償のお仕事としてマルタさんにお見積もりしていただきたいのです」
「えっ……? わ、私にお見積もりをですか? そんな、クレア様のお家のカーテンなら、お代などいただかなくても今すぐここで縫って差し上げますのに!」
反射的に針箱へ手を伸ばしかけたマルタに、私は穏やかに首を振った。
「お仕事としてお願いしたいのです。直すのにかかる手間と糸代を、見積もっていただけますか。急ぎませんから、退職なさってからで」
私の言葉を聞いたマルタは、ハッとしたように自分の指先を見つめ、それから真剣な眼差しで生成り色の布地に向き直った。
「……承知いたしました。一人の仕立物引き受け人として、拝見いたします」
マルタは布を光に透かし、縦横を測った。
「窓も拝見してよろしいですか。見た目だけで丈を決めると、掛けたときに違ってしまいますから」
二階で、彼女は窓の高さだけでなく、留め金の位置も確かめた。布の厚みを指先でつまみ、短くする分を折って見せてくれる。
「これなら、外からの光を塞がず、裾も引きずりません」
私は頷いた。自分では単に余った裾を切ればいいと思っていた。マルタが何を見ているのかを知ると、見積もりの手間賃が、具体的な仕事の時間として思い浮かんだ。
私は紙とペンを差し出した。
「作業にかかる時間と糸代を分けて、退職後の納期を決めていただけますか」
マルタは紙の横へカーテンを置き、古い裾の縫い目を指で辿った。
「ほどいて、裁ち直して……縫うだけでは終わりませんね。最後に掛けて、左右が揃うかも見なくては」
「その時間も、入れてください」
彼女は作業を一つずつ書き、麻糸の量を確かめてから数字を添えた。屋敷では次々に引き受けていた手間が、紙の上で別々の行になっていく。私は布を畳まず、その指が示した箇所をもう一度見た。
マルタのペンが止まった。材料費の下に手間賃を書き、半分ほど消しかける。私は何も言わず待った。彼女は窓を見てから、消しかけた数字をもう一度書いた。
「クレア様、書けました。カーテン二枚の丈詰めと裾の仕立て直し、麻糸代を含めた金額と、退職から五日後の納期でございます。一番下には……屋敷の肩書きではなく、私の名前だけを書きました」
紙面の右下には、『請負人 マルタ』とだけ記されていた。
「拝見いたします。……はい、手間賃も材料費もとても妥当で明朗なお見積もりです。ぜひこの条件で、正式にお願いいたしますね」
私が署名すると、マルタは控えを受け取った。
「……今、値段を消したくなりました」
「この手間がなくなるわけではありませんものね」
「はい。なくなりません」
今度のマルタの返事には、迷いがなかった。
「私、やっぱり再来週の金曜日を最終勤務日として、三十年の勤めをきっぱり終えます。そのあと、このお見積もりの仕事を自分の部屋で縫うのが、今から楽しみでなりません」
自分の口で改めて決意を確かめたマルタは、ふと窓の外に視線を向け、意を決したように立ち上がった。
「あの、大奥様、クレア様。お昼になる前に、少しだけお隣の家主さんのところへ行って参ります。退職したあとに住むための、あのお隣の平屋の離れを、今日、私自身の名前で仮押さえして参ります!」
「まあ、あのお隣の貸室ね! いってらっしゃい、マルタ」
エレノア様に送り出され、マルタは弾むような足取りで隣家へと向かっていった。
三十分ほどして戻ってきたマルタは、「退職の日に本契約をして鍵を受け取る約束で、私の名義で仮押さえができました!」と満面の笑みで報告してくれた。
するとエレノア様は、嬉しそうに台所から焼き上がったばかりのパイとスープを運んできて、居間の卓に三人分の皿を並べた。
「おめでとう、マルタ。パイを焼いたの。一緒に食べましょう。お昼は、私がお出しするわね」
「……はい、大奥様! ありがとうございます!」
マルタが席につき、三人でスープを囲んだ。食事のあと、彼女は引き継ぎに使う小さな手順書を見せてくれた。退職までは、それを後任と読み合わせるそうだ。
午後、晴れやかな顔で王都邸へと戻っていくマルタを見送ったあと、私は自分の手帳を開いて来週の予定を確かめた。
次の水曜日の夕方には、レオン様と川辺を歩く。染物工房の帳簿は、その前日の火曜日が納期だ。私は納品の欄に線を引き、待ち合わせの時刻を、その隣へ書いた。
仕事の予定は迷わず書けるのに、彼の名前を書いた途端、ペンが止まった。




