第17話 退職願は、まだ書けません
「大奥様、クレア様……。明日の水曜日には、十二日間のお休みが終わって王都邸へ戻らなければなりません。本当は今日、この紙に退職願を書いて屋敷へ持っていくつもりだったのですが……どうしても、まだ書けないのです」
火曜日の午前。十二日間の承認済み休暇の最終日を迎えたマルタは、私たちの町家の居間で、白紙のままの便箋を卓上に置いて深く肩を落とした。
土曜日に手紙をもらってから設けた、私的な相談の席だった。黄色いカーテンから柔らかな春の光が差し込む中、六十一歳のマルタは自分の節くれだった指先を膝の上で固く握りしめている。
「宿の部屋で何度も筆を執りました。このお休みの間、大奥様と順番にパンを焼いたり、窓辺で針仕事をしたりして、自分の時間を持つことがどれほど楽しいか初めて知りました。けれど、いざ『辞める』と書こうとすると、明日からの王都邸の家政班の顔が浮かんで、手が止まってしまうのです」
マルタは苦しそうに眉を寄せ、胸の内に溜め込んでいた不安を吐き出した。
「私が抜ければ、家政班の洗濯や繕い物の手が一つ減って、残された若い侍女たちが困るのではないか……。三十年以上も屋敷に置いていただきながら、自分の楽しみのために出ていくなんて、恩知らずな裏切りではないかと思ってしまうのです。それに、私はこれまで住み込みのお仕えしかしたことがございません。この歳で屋敷を出て、本当に一人で部屋を借りて生きていけるのか、計算もできずにただ怖くて……」
長い間、一つの屋敷に身を捧げてきた人ならではの、切実な恐れだった。
エレノア様は白紙を見つめた。裁縫箱を開いていた手を、そのまま膝に下ろした。
「マルタ。あなたが屋敷の仲間のことを思いやり、これからの暮らしを不安に思うのは、ちっともおかしいことではないわ。何十年も毎日続けてきた暮らしを変えるのだもの、足がすくむのは当たり前のことよ」
エレノア様はマルタの白紙の便箋にそっと視線を向けた。
「お金のことは、クレアさんに見てもらったら? それから考えても、遅くはないわ」
するとマルタは、すがるような、それでいて少し恥じらうような眼差しで私の方を見た。
「あの……クレア様。実は今日、長年蓄えてきた私の通帳の控えを持って参りました。もし私が外で小さな部屋を借りて暮らすとしたら、今の蓄えでどれくらい暮らせるのか、計算していただきたいのです。ただ……その、自分の細かな懐事情や貯金の額をよそ様に知られるのは、なんだか気恥ずかしゅうございまして……」
他人に自分の家計の中身を見せることへのためらいと、一人では生活コストを計算できない不安の間で、マルタの声が小さくなる。
私はマルタの気持ちを受け止め、姿勢を正して一つの提案を口にした。
「マルタさん。もしよろしければ、お友達としての立ち話ではなく、私への『一度きりの会計の専門相談』として、有償でご依頼になりませんか?」
「え……? クレア様に、お仕事としてお願いするのですか?」
「はい。個人の家計の試算ですので、商家向けの通常料金の半額――銀貨二枚でお引き受けいたします」
私は事前に報酬の額をはっきりと明示した上で、静かに言葉を継いだ。
「二階で、二人だけで拝見します。額も内訳も、ほかの方には話しません」
マルタは財布を開き、銀貨を二枚置いた。
「では、私も家主さんから聞いた家賃を、お伝えします」
貸室の札の前で何を尋ねたのか、ようやく本人から聞けた。
「ぜひ、それでお願いいたします、クレア様! きちんとお代を払ってご依頼できるなら、これほど心強いことはございません」
私はその場で銀貨二枚を受け取って領収の控えを渡し、マルタだけを伴って二階の仕事部屋へと上がった。
マルタは手帳の控えを開いた。毎月の積み立てと、ときどき大きく減った残高が、几帳面な文字で記されている。私はその紙を、彼女のほうから受け取った。
私はマルタの具体的な貯金額を声に出して読み上げることはせず、手元の計算用紙に王都外縁の相場を書き出していった。
「まず、この近くの離れのような一間の貸室を借りた場合の毎月の家賃がこちらです。そこに、お一人分の毎月の食費、冬場の薪や炭などの暖房費、燈油や日用品といった基礎生活費を、少しゆとりを持たせて足していきますね」
食費を書き込むところで、マルタがパンの値段を二種類挙げた。安いほうばかりで計算しようとするので、私は、たまには好きな菓子も買う分を残しましょうと伝えた。彼女は少し笑った。
やがて一通りの照合と割り算を終えた私は、ペンを置き、試算結果の期間だけを指し示して微笑んだ。
「入居の費用を払い、少し予備を残しても、約二年分の家賃と生活費があります。新しい仕事の収入は、まだ入れていません」
「に、二年分も……!? 私の蓄えで、そんなに長く部屋を借りて暮らせるのですか?」
「はい。ただ、病気や家賃の変更があれば計算も変わります。使った分を書き留めて、ときどき見直しましょう」
マルタは計算用紙の「二年」の下に、自分でも一本、線を引いた。
「……よかった。私、自分がいくらで暮らせるのかも分からずに、ただ屋敷の屋根の下から出るのを怖がっていたのですね」
ほっと息をつくマルタに、私はもう一つの気がかりである「人手不足への罪悪感」についても、実務の視点から静かに言葉を添えた。
「家令には、辞める場合の手順を聞いてみませんか。聞いたら必ず辞めなくてはいけない、ということではありませんから」
私の言葉に、マルタは目を見張り、何度も深く頷いた。
「……まず、聞いてみます。何も確かめずに、書けないと思っていたのですね」
一階へ戻ると、マルタは白い便箋を折った。退職願にはせず、条件を尋ねる手紙に使うという。
「大奥様、クレア様、ありがとうございました。私、これから宿へ戻って、今日のうちに王都邸の家令へ『退職の条件と引き継ぎ期間について教えてほしい』という照会の手紙を出します」
マルタは白紙の便箋を丁寧に鞄へしまい、自分の言葉で明日からの段取りを告げた。
「明日の水曜日からは、予定どおり王都邸へ帰任して、家政班の通常勤務に就きます。勤務中は屋敷の仕事をしっかり務めますので、こちらの町家へは、非番や勤務後の休務時間にだけ、お手紙か短いご挨拶でお知らせに参りますね」
「ええ、それがいいわ、マルタ。お返事が聞けるのを楽しみに待っているわよ」
帰り際、マルタが振り返った。
「生活できるとはわかりました。でも、針仕事でお金をいただけるかは、まだ怖いです」
私は頷いた。今日の計算には、まだ一件も注文は入っていない。
「それは、見積もりを書いてから確かめましょう」
マルタは一度頷き、それから、もう一つ話した。
「屋敷に戻ると、若い子が、いつも私の椅子を空けてくれるのです。繕い物を見てもらいたいからと。あの椅子へ座ったら、やはり辞めると言えなくなるかもしれません」
今は辞めなくてはいけないとも、座らずに済ませればいいとも、私は言えなかった。
「今日の用紙は、持っていってください。迷ったとき、数字を確かめるだけでもできます」
マルタは計算用紙を折り、白紙の便箋と別のポケットへしまった。椅子へ戻ることも、その先に立ち上がることも、彼女にしかできない。私にできるのは、確かめた数字を渡すところまでだった。




