第16話 噂では、帳簿は直りません
「フェルナー様のお仕事の正確さは、うちの番頭も誰より信頼しております。ただ……その、近頃街で流れているアシュバリー侯爵家との噂を耳にしましてね。今回はひとつ、従来の報酬から二割ほど引いていただき、納期も通常の十日ではなく五日で仕上げてはもらえませんかな」
土曜日の午前、職人街にある中堅の染物工房の帳場で、工房主の恰幅のいい男性が算盤を指で弾きながら切り出した。
中庭からは、藍や茜の染め桶をかき混ぜる職人たちの威勢のいい掛け声と、湿った布の匂いが漂ってくる。卓の上には、これから四半期の決算を迎える分厚い大福帳と、未整理のまま束ねられた仕入れ伝票が山のように積まれていた。
私は背筋を伸ばしたまま、工房主の目をまっすぐに見た。
「ご評価いただきありがとうございます。ですが、噂を理由に報酬を減らし、納期を半分に縮めるというのは、どのようなご事情からでしょうか」
「いや、うちの取引先には侯爵家に出入りしている呉服商もおりましてね。フェルナー様が嫡男様との婚約を解消された直後に、その従兄御と街を歩いておられたと聞いて、万が一侯爵家から横槍が入って途中で投げ出されたりでもしたらと、不安になりましてな。その危険を見込む分、安く早く済ませておきたいのですよ」
予想していたとおりの反応だった。一昨日、大通りでバートン夫人にレオン様を恋人と紹介した話は、やはり二日と経たずに商家の耳にも届いていたらしい。
私はまず、一昨日レオン様と二人で決めた基準どおり、事実と異なる懸念だけを簡潔に訂正した。
「侯爵ご夫妻とはお話ししており、仕事を止めるようには言われていません。私生活のことで納期を変える予定もございません」
私はそこで一度言葉を区切り、卓上の未整理の伝票束にそっと手を置いた。
「ですが、五日では、この伝票を全部見ることはできません」
私は鞄の中から、今朝のうちに準備しておいた二枚の書面を取り出し、工房主の前に並べて広げた。
「もし納期やご予算を変更なさりたいのであれば、お仕事の範囲そのものを変える必要がございます。こちらに二つの案をご用意いたしました」
私は一枚目の書面を指し示した。
「こちらの第一案は、これまでと同じ『通常価格・通常納期』の十日間の契約です。店頭での売上集計だけでなく、染料や反物の仕入れ伝票の照合、外注職人への工賃の検算、そして未収金の洗い出しまで、四半期の帳簿をすべて責任を持って点検いたします」
続けて、私は隣の二枚目の書面を示した。
「そしてこちらの第二案が、ご要望の五日間で仕上げる『短納期・減額』の案です。日数が半分になる分、私が行うのは窓口の現金出納帳の集計のみに限定させていただきます。仕入れ伝票との突き合わせや未収金の検算は、工房の皆様ご自身で行っていただくことになります」
「なっ……現金出納だけだと!? それでは、先月どこかで紛れた染料代の二重計上や、卸先への請求漏れが見つからんではないか!」
工房主が思わず身を乗り出して声を上げた。私は落ち着いた声で頷いた。
「おっしゃるとおりです。前回の四半期でも、三百枚を超える仕入れ伝票を一枚ずつ台帳と照らし合わせたからこそ、染料問屋の二重請求と二件の記帳漏れを見つけることができました。作業の範囲をそのままにして日数と報酬だけを削れば、確認の目を粗くするしかなく、結果として工房が損を被ることになります。どちらの案になさいますか、ご主人ご自身でお選びください」
帳場が静まり返った。
工房主は減額案の端を指で叩いた。伝票の山を見て、もう一度だけ叩き、手を引いた。
やがて工房主は、バツが悪そうに自分の頬を掻き、大きく息を吐いた。
「……五日で全部、は無理ですな。こちらの十日でお願いします」
工房主は二枚目の書面を私へ返し、一枚目の『通常価格・通常納期案』の契約書を自分の手元へと引き寄せた。
「うちの帳簿の癖を隅から隅まで分かっておられるのは、フェルナー様しかおりません。どうか第一案の通常どおりの報酬と十日間の納期で、今期の帳簿もすべてお任せさせてください」
「ありがとうございます。十日後に照合を終え、不明な箇所も整理してお渡しいたします」
署名を交わして伝票を預かった。鞄の留め具が閉まらず、私は紐を一本、工房主から借りた。仕事を守った途端、重さも増えた。
工房を出ると、ちょうど昼休みの鐘が街に響いていた。
職人街から少し歩いた小さな石橋のたもとでは、近くの現場を回っていたレオン様が、作業用の上着を腕にかけて私を待っていてくださった。
「お疲れ様でした、クレア様。鞄がずいぶん膨らんでいますね」
「はい! 今期の四半期分も、通常どおりの価格と納期で正式にご依頼をいただいて参りました」
私が契約書の控えを少しだけ見せて報告すると、レオン様は自分の仕事が決まったかのように目元を綻ばせた。
「さすがです。クレア様なら、きっとご自分の言葉で納得させてこられると思っていました」
私たちは橋の欄干のそばにあるベンチに並んで腰を下ろし、パン屋で買った昼食の包みを広げた。川面を渡る春風が心地いい。
「最初は噂を理由に、二割の値引きと半分の納期を求められたのです。ですから、作業範囲を限定した短納期案と、通常の案を並べて選んでいただきました」
私が帳場でのやり取りを話すと、レオン様は深く頷き、ご自分の傷のある掌を見つめた。
「私の建築の現場でも、まったく同じことがありますよ。『予算が足りないから材料費を削れ、工期を半分に詰めろ』と施主から言われることは少なくありません。けれど、漆喰が乾く日数や梁を支える柱の太さは、人間の都合で勝手に縮めることはできないのです」
レオン様の声には、現場を預かる監督としての静かな重みがあった。
「先日も、漆喰を待つ一日が長いと叱られました。乾く前に仕上げた壁を、半年後に見に行くほうが、私は怖いのですが」
私は笑いかけ、彼のパン包みへ目を落とした。半分になったパンの端に、少しだけ漆喰の粉がついていた。
「お手を洗う時間も、短かったのですね」
「ええ。あなたの打ち合わせが、どうなったか気になって」
私は自分の包みから、きれいな一片を渡した。
「レオン様も、いつもそうやって現場を守っておられるのですね。……帰りにあなたにこうして報告できて、本当によかったです」
「ええ。私も、クレア様の勝利の報告を聞けて、午後からの現場に力が入ります」
私たちは微笑み合い、短い昼休みの時間を惜しむように肩を並べて過ごした。
夕方、預かった帳簿を抱えて町家へと戻ると、居間でエレノア様が少し心配そうな顔をして一枚の便箋を手にしておられた。
「お帰りなさい、クレアさん。さっきね、近くの宿に泊まっているマルタが、玄関先までこの手紙を置いていったのよ」
受け取って目を通すと、そこにはマルタの少し震えたような筆跡で、『お休みが明けて水曜日に王都邸へ戻ることを考えると、どうしても足がすくんでつらいのです。大奥様とクレア様に、少しだけお話を聞いていただけないでしょうか』と綴られていた。




