第15話 恋人の名前を、私が告げる
「あら……フェルナー伯爵令嬢ではありませんか。それに、隣にいらっしゃるのはアシュバリー家のレオン様?」
木曜日の午後、会計仕事に使う新しい罫線入りの帳面とインク瓶を買い求め、現場帰りのレオン様と合流して大通りの文房具店の店先へ出たときだった。
華やかな日傘を差した中年の貴婦人が、店の前でぴたりと足を止め、驚いたように私たち二人を交互に見つめた。かつて私がギルバート様の婚約者としてお茶会に出席していた頃、たびたび同席していた社交界の知人、バートン夫人だった。
夫人の視線が、私とレオン様の並んだ肩の間へと向けられる。
その探るような目を見た瞬間、私の身体が条件反射でこわばり、レオン様の隣から半歩後ろへ身を引こうとした。元婚約者の従兄と二人きりで街を歩いているところを見られたら、また後ろ指を差されるのではないか――そんな古い警戒心が、無意識のうちに足を動かしかけたのだ。
けれど、靴のかかとが石畳の上でわずかに滑ったところで、私はぐっと自分の足に力を込め、その場に踏みとどまった。
なぜ、私が隠れるように下がる必要があるのだろう。
慈善市でも一緒に歩いたのだ。ここで離れたら、レオン様は何と思うだろう。私は並んだまま、顔を上げた。
「ごきげんよう、バートン夫人。お久しぶりでございます」
私が一歩も退かずに挨拶を返すと、バートン夫人は扇子で口元を隠しながら、好奇の色を隠せない瞳で歩み寄ってきた。
「ええ、ごきげんよう、クレアさん。先日の侯爵邸での春の慈善市でも、お二人で並んで歩いていらしたと人づてに伺いましたけれど……こうして街中でもご一緒だなんて、どういうご関係なのかしら? ギルバート様とのご婚約が破棄されたばかりでしょう。まさか、侯爵家からの言いつけで、従兄であるレオン様が何かお仕事の世話でも焼いていらっしゃるの?」
悪意とまではいかなくとも、世間の噂話を確かめようとする遠慮のない問いかけだった。社交界に顔が広く、商家とも関わりのあるバートン夫人のことだ。ここで曖昧に言葉を濁せば、それこそ「侯爵家が体面のために従兄をあてがった」という勝手な憶測が街中に広まりかねない。
私は隣に立つレオン様をちらりと見上げた。
レオン様は私の隣に立っていた。私が口を開くのを見て、静かに頷いた。
私は胸の前で帳面の包みをしっかりと抱え直し、バートン夫人の目を正面から見返した。
「いいえ、バートン夫人。侯爵家からの言いつけでも、お仕事の世話でもございません」
通りの雑踏の音が遠のく中、私は自分の声を澄ませて、はっきりと告げた。
「レオン・アシュバリー様です。……私の恋人です」
誰かの婚約者という借り物の肩書きではなく、私自身の口から初めて外の知人へと告げた、恋人の名前だった。
「まあ……! こ、恋人ですって? あなたご自身の口から、そんなにはっきりと仰るのね」
バートン夫人は、私が言い訳をしたり恥じらって俯いたりすると思っていたのだろう。あまりにも堂々とした紹介に、目を丸くして扇子の手を止めた。
「はい。ですから、お仕事のお世話ではありません。二人で歩いていただけです」
私がにこやかに、けれど一点の迷いもない声で付け加えると、バートン夫人は気圧されたように二度三度頷いた。
「そ、そう……。あなたがそこまでしっかりしたお顔で仰るのなら、周りの噂の方が余計なお世話だったようですわね。お邪魔をしてごめんなさい、ごきげんよう」
夫人は少しバツが悪そうに微笑み、日傘を揺らして大通りの向こうへと去っていった。
その後ろ姿が見えなくなってから、私たちは街路樹の並ぶ舗道を並んで歩き出した。
夫人が角を曲がったあと、私は帳面の包みを抱き直した。落ち着いて話せたつもりだったが、紐が指に食い込んでいた。
「……驚きましたか、レオン様。私が自分からあんなふうに紹介してしまって」
「いいえ。クレア様がご自分の声で私の名前を呼んで紹介してくださったことが、何より嬉しかったです」
レオン様は歩調を私に合わせながら、とても優しい目元で微笑んだ。
私はその笑顔を見つめ返し、それから現実的な課題についても率直に口を開いた。
「私の会計や代筆の仕事も、これからも続けたいのです」
「ええ。街の商家には、貴族家の動向や噂話を気にする方もいますからね」
レオン様は頷き、抱えていた包みを持ち直した。
「仕事先には、必要なことだけ話しましょう。二人のことまで、何もかも説明するのは惜しいです」
「では、侯爵家と揉めて仕事ができないと聞かれたら、違うと答えます。それ以外は、帳簿のお話をしますね」
「私もそうします。……ただ、恋人だと聞かれたら、そこは頷きます」
私が笑うと、レオン様も口元を緩めた。その顔を夫人に見られなくてよかったと、少しだけ思った。
夕暮れ前に町家へと帰り着き、二階の仕事机に新しい帳面とインク瓶を並べた私は、手元の書類挟みから一枚の依頼状を取り出した。
明後日の土曜日には、中堅の染物工房の主人と、四半期の帳簿整理に関する具体的な打ち合わせを行う予定になっている。あの工房の主人は、私の実務の腕を高く買ってくれている一方で、世間の風評やお得意様の目を人一倍気にする気質の方だ。
依頼状には、いつもの料金が記されていた。念のため、私はその控えを別の紙に写した。
翌夕、工房から使いが来た。
「主人が、条件を少し相談したいと申しております」
料金表の紙を、私は打ち合わせ用の鞄に入れた。




