第14話 大奥様、パンは順番に焼きます!
「大奥様、お久しゅうございます! 宿に荷物を置いて、すぐにお顔を拝見しに参りました。さあ、まずは居間の桟のお掃除から始めますね!」
金曜日の午後、招かれた客として私の町家を訪ねてきたはずの古参侍女マルタは、玄関を上がるなり、旅行鞄から真っ白なエプロンと自前の羽根箒を取り出した。
マルタの休暇は、今日から再来週の火曜日まで。宿は徒歩十五分ほどの場所に、自分で取っている。
「まあ、マルタ。元気そうで何よりだけれど、そのエプロンと羽根箒はおしまいなさい。今日、あなたはお仕事ではなく、私の大切なお客様としてお茶を飲みに来たのでしょう?」
居間の入り口でエレノア様が微笑んで声をかけると、マルタはエプロンの紐を結びかけたまま目を瞬かせた。
「い、いえ、滅相もございません! たとえ休暇中であっても、大奥様に湯沸かしや窓拭きをさせるわけには参りません。お召し物のアイロンがけも、明日の朝のパン焼きも、ここにいる間はすべて私が――」
「駄目よ、マルタ」
エレノア様は柔らかく、けれどはっきりとした口調で首を振った。
「明日のパンは、私が焼くつもりなの。少し上手になったところだから、取らないでちょうだい」
「えっ……で、ですが、大奥様がご自分でなさってしまったら、私は一体何をすれば……」
マルタの両手が、羽根箒を握ったまま空中でぴたりと止まった。
マルタは箒を下ろした。けれど、卓へどう座ったらいいかわからないように、椅子の前で止まった。
するとエレノア様は、固まっているマルタの手から羽根箒をそっと預かり、卓の上へ置いた。
「何もしなくていいのよ。でも、もしあなたがお窯を使ってみたいのなら……明日の朝、私と『順番に』パンを焼いてみない? 私の代わりにあなたが焼くのではなく、私のパンとあなたのパンを半分ずつ焼いて、どちらが上手に膨らむか比べっこをするの」
「大奥様と私が……順番に、ですか?」
「ええ。今日はもうお茶を飲んで、宿でゆっくり足を伸ばして休みなさい」
翌土曜日の朝、まだ日差しが瑞々しい時刻に、宿から歩いてやって来たマルタが町家の台所に立った。
「……あの、大奥様。本当にお手伝いしなくてよろしいのですね? パンは順番に焼きます!」
自分に言い聞かせるように宣言したマルタの声に、エレノア様が「ええ、まずは私の一窯目からよ」と楽しそうに笑った。
私は朝の湯を沸かしたあと、台所の隅で二人の様子を見守った。エレノア様が慣れた手つきで生地を丸めて窯へ入れ、火掻き棒で薪の位置を調整する。マルタは最初はハラハラしたように手を伸ばしかけていたが、やがてぐっと自分の手を引っ込め、代わりに自分の分の生地をこね始めた。
一窯目のエレノア様のパンが香ばしく焼き上がると、次はマルタの番だ。長年屋敷の厨房を見聞きしてきたマルタは、初めての小さな焼き窯にもすぐに馴染み、見事な手つきで二窯目を焼き上げた。
「見てちょうだい、クレアさん! 私の方は少し横に広がったけれど、マルタのパンはてっぺんがぷっくり割れて、お店みたいに綺麗よ」
「まあ、大奥様のパンの方が皮がパリッとしていて、小麦の良い香りがいたします!」
居間の食卓に二つの籠を並べ、七十三歳の元女主人と六十一歳の侍女が、それぞれの焼いたパンを食べ比べては声を上げて笑い合う。
二人が二杯目のお茶を淹れ始めたところで、私は自分の皿を片付けて席を立った。
「エレノア様、マルタさん。私は午前中に仕上げる商家の帳簿整理と代筆の仕事がございますので、二階の仕事机へ戻りますね。お昼までごゆっくりお過ごしください」
「ええ、いってらっしゃい、クレアさん。お仕事の邪魔にならないよう、私たちは下でおしゃべりしているわ」
昼食を挟んだ土曜日の午後、一通りの帳簿の照合を終えて一階へ降りると、居間の窓辺では穏やかな光景が広がっていた。
黄色いカーテンから差し込む日差しの中、エレノア様とマルタが並んで椅子に座り、針を動かしていたのだ。
「マルタ、あなたが直してくれたこの春の普段着、裾の重みがなくなって本当に歩きやすいわ。カーテンを縫ったときの黄色い残り布も、こんな素敵な小袋になるのね」
「恐れ入ります。この布地は目が詰まっておりますから、返し縫いを細かく入れておくと、洗っても型崩れしないのですよ」
マルタは黄色い端切れに器用に針を通しながら、先ほどまでの不安げな顔が嘘のように、いきいきとした声で縫い方の工夫を語っていた。
私が縫い目を覗くと、マルタは小袋を裏返して見せてくれた。
「使う方に見えないところほど、始末を丁寧にするのです」
エレノア様が値打ちのある手だと言うと、彼女は笑って、「余り布ですから」とだけ答えた。
やがて夕暮れが近づき、「宿の夕食の時間に間に合うように」とエレノア様に送り出されたマルタは、名残惜しそうに、けれど明るい足取りで町家の玄関を出ていった。
私が二階の窓の鎧戸を閉めようと何気なく表通りを見下ろした、そのときだった。
宿へと向かって歩いていたマルタが、私の町家のすぐ隣にある古い家屋の脇で、ふと足を止めたのだ。
隣家には、母屋とは入り口が別になった小さな平屋の離れがあり、その木の門柱には先月から『貸室・一間』と書かれた白い木札が掛けられていた。マルタはその木札の前にしばらく立ち止まり、小さな離れの屋根と、隣の私たちの町家の窓を交互にじっと見上げてから、ゆっくりと宿の方へと歩いていった。
マルタは札に手を伸ばしかけたが、触れずに去った。
翌朝、隣家の家主に会った。
「昨日、家賃を聞かれましたよ。あの方、窓の大きさも知りたいと」
マルタは値段を聞いた。けれど私たちにはまだ、そのことを話していない。




