第13話 息子として、菓子折りをひとつ
「母上、フェルナー嬢。本日はお時間をいただきありがとうございます。手紙でお伝えしたとおり、今日は侯爵家の当主としてではなく、ただのヴィクトルとして参りました」
春の慈善市から二日が経った月曜日の午前。私の町家を訪れたヴィクトル侯爵様の手には、先日のような支援案の書き付けも、王都邸の分厚い帳簿も握られてはいなかった。
代わりにその大きな手に提げられていたのは、王都の古い菓子舗の包装紙で包まれた、小さな焼き菓子の折り詰めが一つだけだった。隣に立つイザベル奥様も、肩の力が抜けた柔らかな春色の装いで微笑んでおられる。
お茶を並べ、皆で席についた。
ヴィクトル様はまず、姿勢を正して土曜日の結果を簡潔に報告した。
「市の集計と業者への支払いは、昨日済みました。勤務簿は補佐が照合し、会計係が支払います。市の進行表はイザベルが持っています」
明快な報告に、エレノア様は「ええ、ご苦労様」と穏やかに頷いた。
ヴィクトル様はさらに言葉を継ぐ。
「ギルバートには、何を誰に頼んでいるのか、自分の言葉で説明するように言いました。母上とフェルナー嬢を侮辱したことも、支払いで済んだと思うな、と」
一通りの報告を終えると、ヴィクトル様はふっと当主の顔を解き、一人の息子としての眼差しで母の顔を見つめた。
「母上。土曜日は、お庭の仕事ができましたか」
急かさずに尋ねる息子の声に、エレノア様は茶碗を両手で包み込み、左手首に巻かれた藍糸と黄糸の輪へと視線を落とした。
少しの間をおいて、エレノア様は作られた笑顔ではなく、今のありのままの気持ちを静かに口にした。
「ええ。でも、思ったより進まなかったわ。市の話を聞いて、ほっとしたのに、急に手が止まってしまって」
エレノア様はふっと小さく苦笑し、窓辺の黄色いカーテンを見上げた。
「けれどね、そのすぐあとに、胸の奥がすうっと頼りなくなるような、思いがけない寂しさがこみ上げてきたのよ。五十年もの間、私が目を配らなければ屋敷の行事は回らないと思い込んでいたのに、私がいなくても春の市はこんなにも綺麗に開けるのだわ、と思ってね」
「お義母様……」
イザベル奥様が胸を突かれたように息を呑む。エレノア様は静かに言葉を続けた。
「仕事がなくなったら、あなたたちが私に会いたい理由まで、なくなる気がしたのよ。おかしな話ね。自分で出てきたのに」
七十三歳の母が初めて息子夫婦の前で明かした、五十年の弱音だった。
それを聞いたヴィクトル様は、言葉に詰まったように目を伏せ、それから卓に額がつくほど深く、長く頭を下げた。
「……母上。私は、お願いのあるときばかり手紙を書いていましたね」
顔を上げたヴィクトル様の目元は、わずかに赤く潤んでいた。
「父上が亡くなってから、なおさらです。母上がお元気なら、それでいいと。何を楽しんでいらっしゃるか、尋ねもしなかった。……すみませんでした」
ヴィクトル様は膝の上から、持参した小さな焼き菓子の包みを取り出し、そっと卓の中央へ差し出した。
「これは、私が子供の頃、母上がよくお茶の時間に召し上がっていた蜂蜜の焼き菓子です。今日これを持ってきたのは、母上に頼み事をするためではありません。これからは、母上が屋敷の役に立つから会いに来るのではなく……ただ一人の息子として、母上の元気な顔を見に、一緒にお茶を飲みに来たいのです」
包みを差し出す不器用な息子の手を見つめ、エレノア様は大きく目を見張った。
やがて、その瞳から幾筋もの涙が静かに頬を伝い落ちた。けれど、その唇に浮かんだのは、土曜日の夕方の翳りが嘘のような、晴れやかで温かい微笑みだった。
「……このお菓子、あなたも好きだったわね。私の分まで食べてしまって」
エレノア様はハンカチで目元を押さえると、差し出された焼き菓子の包みにそっと手を添えた。
「ありがとう、ヴィクトル。大奥様としてでも、屋敷の相談役としてでもなく……この小さな家に時々遊びに来る『一人の客』としてなら、いつでも歓迎するわ。今度来るときも、難しい書類ではなく、美味しいお菓子を一つだけ持っていらっしゃいね」
「はい、母上! 必ずそういたします」
イザベル奥様も目頭を拭いながら、「お義母様、私もお義母様のこの素敵な暮らしを心から応援いたしますわ。今度伺うときは、お庭の花のお話を聞かせてくださいね」と明るく頷いた。
すると、ヴィクトル様とイザベル奥様が揃って私の方へと向き直った。
「フェルナー嬢、次に伺うときも、先に知らせを出します。貴女のお仕事の邪魔にはなりませんか」
私は親子の温かな和解を胸に刻みながら、この家の家主として背筋を伸ばし、笑顔で頷いた。
「ええ。どうぞまたいらしてください。今度は、私も菓子をひとついただきたいです」
エレノア様が笑って、私の皿に菓子を載せた。ヴィクトル様は母に昔の菓子の話を尋ね、半分ほど覚え違いをしていたらしい。イザベル奥様も笑い、お茶はもう一杯ずつ必要になった。
やがて焼き菓子とお茶を楽しんだ侯爵ご夫妻が、晴れやかな顔で馬車へと乗り込み、帰途につかれたちょうどそのときだった。
表通りからやって来た郵便配達の青年が、町家の郵便受けに一通の白い封書を届けてくれた。
「あら、誰からかしら?」
玄関先まで一緒に出ていたエレノア様に手紙をお渡しすると、裏返して差出人の名前を見たエレノア様が、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ、クレアさん! 王都邸のマルタからよ」
その場で封を切って便箋を開くと、そこには几帳面で丁寧な文字が並んでいた。
マルタが金曜日から十二日間の休暇を取るという。その間に訪ねてもいいかと、丁寧に尋ねていた。
「マルタが休暇を取るのね! あの子、三十年以上も屋敷で働き詰めだったから、まとまったお休みを取るなんて初めてじゃないかしら」
エレノア様は嬉しそうに手紙を胸に当てた。そしてすぐ、自分の言葉でしっかりと付け加えた。
「パンを焼く日に招きましょう。宿はもう取ったとあるわね。せっかくのお休みだから、夜はゆっくり眠ってもらわなくては」
便箋を畳むと、その下に別の小さな紙があった。
『お茶の後、何かお手伝いすることはございますか』
エレノア様は首を傾げた。
「お休みの初日なのに、もう仕事を探しているのね」




