第12話 大奥様のいない春の慈善市
「では、お祖母様。午後の一般公開の時間だけ、レオン様と一緒に少しだけ会場の様子を見て参りますね」
「ええ、気をつけていってらっしゃい。私は今日、この小庭のすみれの周りに新しい腐葉土をすき込んでおくわ」
十日延期された慈善市が、土曜日にようやく開かれた。
よく晴れた昼下がり、麦わら帽子をかぶって楽しそうに小さな移植ごてを手にするエレノア様に手を振り、私は迎えに来てくださったレオン様と一緒に町家の門を出た。
馬車に揺られて三十分ほどで王都邸の表通りへ着くと、開け放たれた鉄格子の正門には春色のリボンが飾られ、一般客の馬車や徒歩の人々が次々と中庭へ吸い込まれていくのが見えた。
門の手前で馬車を降りたとき、レオン様が私の隣で足を止め、穏やかな声で言った。
「三十分くらいで帰りましょうか。気になる店があれば、長くいてもいいですが」
「はい。今日はお茶葉を買いたいのです」
私たちは微笑み合い、並んで正門をくぐった。
入り口の受付天幕の脇には、先日の水曜日にイザベル奥様が手紙で知らせてくださったとおり、大きな木製の案内板が立てられていた。そこには読みやすい文字で、『本年の春の慈善市は、現当主ヴィクトル・アシュバリーならびに妻イザベルが主催責任者を務めます。招待状の記載に一部旧表記が残っておりましたことをお詫び申し上げます』と明記されている。
受付を抜けて芝生の中庭へ足を踏み入れると、白い天幕の下に手工芸品や焼き菓子、春の花鉢を並べた露店が並び、華やかな賑わいを見せていた。
ふと周囲から、私たちの姿に気づいた社交界の知人や商家の方々の視線が集まるのを感じた。元婚約者の屋敷の催しに、その従兄と二人で現れたのだから当然だろう。
するとレオン様は、周囲の視線から隠れるでもなく、ごく自然な所作で私の方へ左腕を差し出した。
「足元の芝が少し湿っています。どうぞ、私の腕におつかまりください、クレア様」
「ありがとうございます、レオン様」
袖に手を添えたとたん、こちらを見ていた知人が扇子を閉じた。私は会釈を返した。レオン様の歩幅が、少しだけ小さくなった。
会場の中央では、主催者であるヴィクトル様とイザベル奥様が並んで立ち、訪れた寄付者や来賓の一人ひとりに自らの言葉で挨拶を交わしておられた。誰かに任せきりにするのではなく、自分たちの名前で客を迎えているその姿には、以前にはなかった落ち着きがある。
私たちが焼き菓子の天幕を通り過ぎ、会場の東側にある園芸品の区画へ差しかかったときだった。
「――困りますよ! うちに届いた発注書では、白薔薇の鉢が二十で、黄色い水仙が三十となっていたはずです。なぜ会場の札は数が逆になっているのですか!」
花鉢を積んだ荷車の前で、納品業者の花屋の主人が困惑した声を上げていた。天幕の前には購入を待つ客が数人並び始めており、札の数と実際の鉢の数が食い違っているせいで販売が止まってしまっているらしい。
私たちは荷車を避け、通路の端へ寄った。私の顔を見た花屋が一瞬こちらへ口を開いたが、すぐに向きを変えた。
「すみません、今年の確認担当の方はどちらですか」
「こちらです」
王都邸の家令が、三十代ほどの眼鏡をかけた男性を連れて来た。便りにあった、新しい補佐の方だ。
「お待たせいたしました。ただいま発注控えと納品伝票を照合いたします」
補佐が控えを読み、家令が鉢を数えた。花屋も荷車の端から一鉢ずつ確かめる。天幕の係は、その間、客を別の売り台へ案内していた。
「木札へ写すときに、品名の順を取り違えています。発注書も納品も、白薔薇が二十、水仙が三十です」
家令補佐が正確に報告したそのとき、天幕の奥から帳面を抱えたギルバート様が顔を赤くして走ってきた。
「どうした、花屋との間で手違いがあったと聞いたぞ!」
家令から事情を耳打ちされたギルバート様は、言い訳を飲み込むようにぐっと唇を噛み、花屋の主人の前で自ら頭を下げた。
「……すまない。木札を確かめたのは私だ。数字だけを見て、品名と合わせなかった。花屋の間違いではない」
「木札の数字は今すぐ私の手で書き直す。それと、もし白薔薇を希望されるお客様が多ければ、夕方の閉会までに追加で十鉢届けてもらえないだろうか。もちろん、急ぎの配送料と追加代金は正規の額に上乗せして支払う」
「いえ、若旦那様がそこまで仰るなら、店に戻ってすぐに白薔薇を十鉢手配してまいりますよ!」
花屋の主人は機嫌を直し、威勢よく頷いた。並んでいた客からも「すぐに対応してくれるなら安心ね」と穏やかな声が上がり、販売は滞りなく再開された。
ギルバート様が木札を下ろした。補佐の読み上げる品名と数を、今度は一緒に書き写していた。私は彼と目を合わせず、レオン様と次の店へ進んだ。
「……十分見届けましたね、クレア様。そろそろ帰りましょうか」
「ええ。お祖母様にお土産のお茶葉を買って帰りましょう」
帰り際、ギルバート様と通路ですれ違った。彼は私に気づき、レオン様の腕に添えた私の手へ、一瞬だけ目を落とした。
「フェルナー……嬢」
いつも呼び捨てだった名に、言い慣れない敬称がついた。私が会釈をすると、彼は何か言いかけた。だが、背後から補佐が納品の確認を求め、ギルバート様はそちらへ向き直った。
「今行く。控えを、私にも見せてくれ」
私を追わずに仕事へ戻る背中を、初めて見た気がした。レオン様も何も言わず、出口へ歩いた。
私たちは三十分ほどの滞在で王都邸を後にし、晴れやかな春の風の中を町家へと戻った。
町家へ帰ると、エレノア様は花壇の手入れを終え、手を洗って居間の椅子に座ったところだった。
「お帰りなさい、二人とも。王都邸の慈善市はどうだったかしら?」
「はい、とても賑わっておりましたよ」
紅茶を淹れながら、名義の掲示と花屋の手違いを話した。
「私たちが帰る頃には、販売も始まっていました。あとは夕方まで、あちらの方々が進めると思います」
レオン様も、ギルバート様が木札を直していたことを話した。
「そう……よかった。私が行かなくても、ちゃんと動いていたのね」
エレノア様は胸を撫で下ろし、心からほっとしたように明るい笑顔を浮かべた。
けれど、その直後だった。
茶碗へ手を伸ばしかけたエレノア様の視線が、ふとご自分の左手首に巻かれた藍糸と黄糸の輪へと落ちた。
「……五十年も、私がいなければ回らないと思い込んでいたのに。私がいなくても、春の市はちゃんと綺麗に開けるものなのね」
ぽつりとこぼれたその独り言には、催しの成功を喜ぶ安堵とは別の、思いがけない寂しさがほんのわずかに滲んでいた。
私はカップを彼女の前に置いた。エレノア様は受け取ったが、すぐには飲まなかった。
レオン様が帰られたあとの夕暮れ時、町家の郵便受けに王都邸のヴィクトル様から一通の書簡が届いた。
書簡には、閉会まで無事に終えたことが記されていた。続く一行は、エレノア様が声に出して読んだ。
『月曜日に、母上とお茶を飲みに伺えますか』
エレノア様は手首の輪から手を離した。
「お茶だけ、なのね」




