第11話 黄色いカーテンと、主催者の名前
「お義母様……。私、お義母様が五十年も住まわれた王都邸を出てこの町家へ移られたと聞いたとき、義理の娘である私のことが嫌になって、私を拒絶なさったのだと思っておりました」
週明けの月曜日の午後。約束どおりお一人で町家を訪ねてこられたイザベル奥様は、居間の椅子に腰を下ろすなり、膝の上でハンカチを強く握りしめて俯いた。
私はお茶と一緒に、今朝エレノア様がご自分で焼き上げたばかりの丸パンを小皿に乗せて卓へ並べ、部屋の隅の席で静かに見守った。
イザベル奥様の声は、ずっと一人で抱え込んできた不安で小さく震えていた。
「私はいつも、お礼の手紙を書いていました。でも、お義母様がそれを読むとき、机にどれだけ仕事が残っていたのか、考えたことがなくて」
そこまで言うと、イザベル奥様は堪えきれなくなったように目元を押さえた。
エレノア様はすぐには言葉を返さず、小皿の上のまだ温かい丸パンを一つ取り、イザベル奥様の前へとそっと進めた。
「イザベル、まずはこれを一口食べてみてちょうだい。最初に焼いたときは炭みたいに焦がしてしまったけれど、今日はずいぶん綺麗に焼けたのよ」
「え……? あ、ありがとうございます」
促されるままにパンをちぎって口に運んだイザベル奥様が、小麦の甘い香りと素朴な味わいに目を瞬かせる。エレノア様はその顔を見て、春の陽だまりのように穏やかに微笑んだ。
「美味しいでしょう? ねえ、イザベル。私が屋敷を出たのは、あなたを嫌ったからでも、誰かを憎んだからでもないのよ」
エレノア様は、南向きの窓辺で春風に揺れる黄色いカーテンへと視線を向けた。
「手紙は嬉しかったわよ。だから、持ってきました。寝室の引き出しに入れてあるわ。……でも、このパンは、侯爵邸では焼けなかったでしょう?」
「お義母様……」
イザベル奥様は、ちぎったパンを見つめたまま頷いた。
「私の手紙を、持ってきてくださったのですか」
「ええ。全部ではないけれど。孫たちの近況を書いてくれたものは、よく読み返しているの」
今度は、イザベル奥様も少し笑った。
お茶を飲み終えて涙を拭ったイザベル奥様は、気持ちを切り替えるように鞄から一冊の書類綴りを取り出した。
「お義母様のお気持ちを伺えて、胸のつかえが下りました。それで、今週末の土曜日に延期した春の慈善市のことで、お義母様に一つだけご確認いただきたい書類がございまして」
卓上に広げられたのは、王都邸で開かれる春の慈善市の最終進行表だった。
何気なく横からその表紙に目を落とした私は、一番上の欄を見て思わず息を呑んだ。エレノア様も老眼鏡を当てて紙面を覗き込み、ぴたりと指を止める。
「あら、イザベル。この進行表、主催責任者と当日の最終確認者の欄が、まだ『先代侯爵夫人エレノア』のままになっているわよ」
「えっ……!? まあ、本当ですわ! 日程を十日延期しただけで、肝心の主催者の名義が昔の記載のまま直っておりません……!」
イザベル奥様は真っ青になり、慌てて私の方へと顔を向けた。
「どうしましょう、開催まであと五日しかありませんわ! ねえ、クレアさん。あなたは以前、お義母様と一緒にこの慈善市の進行表をまとめたことがあったでしょう? 他に書き漏れている箇所がないか、今日ここで少しだけ目を通して手伝っていただけないかしら」
かつての習慣で、悪気なく差し出された進行表だった。
けれど私は、それに手を伸ばすことはせず、自分の仕事机の上に積まれたままの封筒の束に視線を向けてから、落ち着いた声で首を振った。
「明日が納期の仕事がありますので、今はお引き受けできません。家令と補佐の方に、確認をお願いしていただけますか」
イザベル奥様は私の仕事机へ目をやり、差し出した書類を引っ込めた。
「……っ、ごめんなさい、クレアさん! 私、また当然のようにあなたの時間と働きにただで頼ろうとしていましたわね」
イザベル奥様は書類の端を揃えた。
「確認欄に私の名前が入れば、会場の者は私に聞きに来るのですね」
「ええ」とエレノア様が答えた。「すぐにわからないこともあるわ。私も、家令や業者に尋ねていたのよ」
イザベル奥様は紙をもう一度見た。
「間違えたら、お義母様がいればと、思われるかもしれません」
エレノア様は返事を急がず、カップを持ち直した。
「私が間違えなかったわけではないわ。イザベル、土曜日のあなたの席を、私が代わりに引き受けることはできません」
義娘は頷いたが、今度は簡単には笑わなかった。進行表を鞄のいちばん取り出しやすいところへしまった。
「持ち帰ります。私どもの名前に改めて、当日も、私どもで確かめますわ」
その言葉どおり、二日後の水曜日には、王都邸のイザベル奥様から経過を知らせる丁寧な書簡が町家へと届いた。
手紙には、夫妻が主催と最終確認を引き受け、名義も改めたとあった。
招待状をすべて回収する余裕はない。ギルバート様が受付に訂正を掲示することにし、仕立屋にも自分で納品数を確認しに行ったそうだ。便箋の下には、イザベル奥様が小さく「土曜日には、この表を私が持ちます」と書き添えていた。
「ふふ、イザベルもヴィクトルも、そしてギルバートまで、自分たちの足で動き始めたみたいね」
書簡を読み終えたエレノア様が、黄色いカーテンのそばで満足そうに目を細めた。
エレノア様は手紙を膝に置き、しばらく黙っていた。
「土曜日、私は庭の土を足しましょう」
そう言って裁縫箱を開けたが、針を取り出す前に、もう一度便箋へ目をやった。




