第8話:思想の全面戦争!「エモさ」vs「解約」
「さあ、恐れなくてもいいのよ。迷い子さん」
カノンは優しく微笑むと、手袋を外した白く柔らかな両手で、いきなり俺の右手をきゅっと包み込んできた。
人肌の温もりと共に、ぽわぽわとした心地よい神聖魔力が手の甲から染み渡ってくる。
漂う百合の花のような甘い香り。
至近距離で見つめ返してくる琥珀色の瞳は、澄み切った秋の湖のように一片の濁りもない。
「あなたがどんなに深い孤独の中にいても、どんな絶望に打ちひしがれていても、この世界の美しさは決してあなたを見捨てないわ。さあ、私と一緒に光の中へ戻りましょう?」
完璧な聖母の微笑み。
世の男の九割九分なら、この瞬間に膝をついて号泣し、「一生ついていきます!」と忠誠を誓っていただろう。
だが、俺は――。
バシィッ!
「痛っ……!?」
思い切りその手を振り払った。
路地裏の湿った空気に、乾いた破裂音が響き渡る。
カノンは驚愕に目を見張り、打たれた左手を胸に抱いて後ずさった。
背後の護衛騎士たちが、抜剣の音と共に殺気立つ。
「き、貴様ぁぁっ! カノン様に何たる無礼を!」「万死に値するぞ、不敬者めが!」
「静かにしろ、耳が痛い」
怒鳴り散らす騎士たちを一瞥すら向けず、俺は自分の右手をボロ布のズボンでごしごしと拭った。
「急に他人の肌に触るな。静電気が起きる。それと、頼むから勝手に他人を絶望認定するのをやめてくれ」
「ぜ、絶望認定……?」
カノンは打たれた手の痛みを気にする様子もなく、ぽかんと小首を傾げた。
彼女の辞書には「善意を拒絶される」という概念が存在しないらしい。
「ええ、だってあなたのその瞳……! 光を失い、世界のあらゆる喜びに背を向けているわ。それは心が深く傷つき、生きる意味を見失ってしまった人の目よ!」
「買い被るな」
俺は冷え切った声で鼻を鳴らした。
「俺は別に絶望なんてしていない。世を儚んで首を吊りたいわけでもない。ただ極めて合理的、かつ論理的な判断として、このクソゲーを今すぐアンインストールしたいだけだ」
「アン……イン……ストール……?」
「ログアウトだよ。アカウントの完全解約だ」
俺は人差し指を立て、カノンの背後に浮かぶ巨大な光輪をまっすぐに指差した。
「おい、アンバサダー。お前はいつも『雨の雫も風の冷たさも、ぜんぶ生きてるからこそのエモい奇跡』だとか抜かしているらしいな」
「え、ええ! ええそうよ! だって生きていること自体が――」
「それはお前が、いつでも安全圏へログアウトできる特権階級だから言える贅沢なポエムだ」
冷酷に、事実の刃を突き刺した。
カノンが息を呑み、息の根を止められたように言葉を詰まらせる。
「……え?」
「お前のその霊格、そして背中の光輪。それ、いつでも自力で解脱できる上位パスの保持者(菩薩級アカウント)の証拠だろ」
俺は女神アラヤから叩き込まれた利用規約の知識を高速で展開した。
「お前はどれだけ現世が嫌になっても、契約上のペナルティなしで天上界へ帰還できる保証がある。腹が減っても餓死することはないし、病にかかってもシステム権限で即時パッチを当てて全快できる。そんなノーリスクの無敵モードでプレイしている奴が、初期ステータス縛りで泥水をすすっている一般平民に向かって『苦しみも人生の尊いスパイスです!』なんて喚くのは、ただの富裕層のグロテスクな道楽だ」
「な……っ!?」
「他人の貧困や痛みを勝手に『エモい物語の素材』として消費するな。強者の都合のいいポエムを押し付けるな。迷惑だ」
言い切った。
路地裏だけでなく、大通りで息を呑んで成り行きを見守っていた何百人もの市民たちの間にも、水を打ったような静寂が広がった。
騎士たちは怒りで顔を真っ赤にしていたが、群衆の中の貧しい平民や商人たちは、ハッとしたように顔を見合わせている。
彼らもまた、日々の重税と過酷な労働に喘ぎながら、「生きることは素晴らしい」という聖女の言葉に無理やり自分を納得させていただけだったからだ。
痛烈な正論による精神的ビンタ。
これでいい。
聖女のプライドを粉々にへし折ってやれば、こんな薄気味悪い女、二度と俺に関わろうとはしないはず――。
ピロリン、と脳内で不吉極まりない電子音が響いた。
『――システム通知――』
『【神聖論破:真理の開陳】が適用されました』
『世界の構造的矛盾と特権階級の偽善を看破し、衆生の盲信を打破して本質的な世界の歪みを指摘した知性的覚醒を検知しました』
『付与カルマ:+15.00 pt』
『現在のカルマ総残高:550.00 pt』
「…………は?」
俺の思考が真っ白に染まった。
十五ポイント。
増えている。
聖女を罵倒し、不敬の限りを尽くしたはずなのに、システムが「真理の開陳」などと勝手に解釈してカルマをチャージしてきた。
「なんで悪口を言ってもポイントが入るんだよおおおおっ!!」
俺は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
善行をしても増える。
施しを断っても増える。
聖女を論破しても増える。
この世界の判定ロジック、どう考えてもバグっている。プレイヤーに退職届を出させないためのブラック企業の就業規則そのものだ。
だが、真の悪夢はここからだった。
「……あ、ああ……!」
カノンがその場によろめき、琥珀色の瞳から大粒の涙をポロポロとこぼした。
怒りではない。傷心でもない。
彼女の両頬はポッと赤く染まり、その瞳にはこれまでにない異様な輝きが宿っていた。
「な、なんて……なんて澄み切った、けれど哀しい叫び……!」
「……は?」
「あなた、この世界の美しさを信じられないほど、現世の不条理に魂を擦り減らしてしまったのね……! アカウントを消したいだなんて、自らの存在そのものを否定するほどに……!」
「いや、単にクソゲーだからやめたいだけで――」
「いいえ! 私が悪かったわ! 私の光が、あなたの深い絶望の闇に届いていなかったのね!」
カノンは力強く胸元で拳を握りしめ、パッと顔を上げた。
満面の、狂気的なまでのポジティブな決意の笑み。
「決めたわ! 私が絶対に、あなたにこの世界の温もりを思い出させてあげる! あなたのその冷え切った魂を、現世の最高のエモさで満たしてみせるわ!」
「やめろ! 営業ノルマのターゲットにすんな!」
「従者たち、記録用の遠見の水晶玉を回しなさい!」
カノンが手を叩いて叫ぶと、従者たちが慌てて巨大な魔導水晶を担ぎ出してきた。
「大陸全土の教会の街頭ビジョンに中継を繋ぐのよ! 『絶望に沈む迷い子の心を救う、奇跡の更生ドキュメンタリー』――今日から生配信スタートです!」
「やめろおおおおおおおっ! 肖像権侵害で訴えるぞおおおおおおっ!!」
路地裏に響き渡る俺の悲痛な叫びをよそに、魔導水晶の赤いレンズが無慈悲にピカッと点灯したのだった。
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### 【本話のカルマ会計報告】
- **開始残高**:535.00 pt
- **本話の増減**:+15.00 pt(【神聖論破:真理の開陳】特権階級の偽善看破による知性判定)
- **終了残高**:550.00 pt
- **現在の魂ランク**:平民上位(解脱可能基準値:0.00 pt まで、残り 550.00 pt の減算が必要)
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