第6話:街角のレスバと「空(くう)」の教義
石畳の路地裏は、大通りの喧騒が嘘のように薄暗く静まり返っていた。
ゴミ箱の陰に滑り込んだ俺は、冷たいレンガ壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
これ以上走るのは危険だ。
無駄にカロリーを消費すれば基礎代謝が上がり、飢餓ダメージで余計な生命維持コストが発生する。
俺は両脚を組んであぐらをかき、両手を膝の上に置いて、極限の「省エネ待機モード」へと移行した。
目を閉じ、呼吸を浅く整え、心拍数を限界まで下げる。
ログインしているだけで毎秒リソースを食われるこのクソゲー世界において、最大の防御策は「何もしないこと」だ。
バックグラウンドタスクをすべて切断し、静かに時が過ぎるのを待つ。
だが――現世という名のサーバーは、俺に安らかなスリープを許してくれなかった。
「はぁ、はぁ……! み、見つけました……っ!」
小気味いい靴音が路地裏の静寂を破った。
目を開けると、そこには肩で息をしながら、乱れた黒髪を直そうともせず立っている見習いシスター・セシリアの姿があった。
丸眼鏡が息で少し曇っている。
(……なんで追いつけるんだよ。足腰強すぎだろ、この修道女)
俺は心底うんざりしながら、半眼で彼女を見上げた。
「……なんの用だ。執拗な追跡は迷惑防止条例違反だぞ」
「じょうれい……? い、いえ、そんなことより!」
セシリアは曇った眼鏡をくいっと押し上げ、真剣そのものの表情で俺へと詰め寄ってきた。
胸の前でギュッと抱きしめられているのは、先ほど取り出した革表紙の手帳だ。
「せめてお名前だけでも教えてください! あなたのような高潔な御方が、誰にも知られず街の片隅で行き倒れるなど、絶対にあってはなりません! 光輪教会の記録係として、私はあなた様を放っておけないのです!」
「お断りだ」
俺はにべもなく切り捨てた。
「個人情報を明かすメリットが俺に一つもない。名前を教えれば名簿に登録され、寄付の催促状や広報誌のポスティングが始まるに決まっている。ダイレクトメールの配信停止手続きほど無駄な時間はない」
「め、名簿……ダイレクト……? ち、違います! 私はただ、あなたという尊き存在を――」
「尊い存在など、どこにもいない」
俺はセシリアの言葉を冷酷に遮った。
これ以上付きまとわれては、またいつ「感銘を受けた」などと言って徳ポイントを不正送金されるか分かったものではない。
ここで徹底的に現世への無気力さを叩きつけ、幻滅させて追い払う必要がある。
俺はレンガ壁に頭をもたれさせ、空虚な路地の空間を指差した。
「いいか、よく聞け。俺の名前など、個体を区別するための単なる識別コード(ユニークID)にすぎん」
「識別……コード……?」
「そうだ。名前だけじゃない。この薄汚れた肉体も、お前が着ている修道服も、足元の石畳も、遠くに見える大聖堂も同じだ。突き詰めてしまえば、すべては神とかいうふざけた運営が設計した、演算データの塊にすぎんのだ」
俺にとっては紛れもない事実だった。
女神アラヤが管理するこの世界は、物理法則すらカルマとシステムログで動く巨大な分散コンピューティング環境だ。
人間も建物も、サーバー上で走るオブジェクトのレンダリング結果にすぎない。
そんなものに感情を注ぐなど、ディスプレイに映るピクセル配列に本気で恋い焦がれるくらい滑稽な話だ。
「実体のない一時的なキャッシュデータに、いちいち名前をつけて執着して何になる? どうせログアウトすれば、すべてはゼロとイチの電子の海へ消える幻影だ。存在しないものに縋りつくのはやめろ。時間の無駄だ」
吐き捨てるように言って、俺はふたたび目を閉じた。
完全に頭のおかしい虚無主義者の戯言である。
常識的な信仰者なら「神への冒涜だ」「気味が悪い」と唾を吐きかけて逃げ出すはずだ。
そうすれば対人関係のセッションは切断され、俺は平和な待機状態へと戻れる。
――はずだった。
「…………っ!」
ふいに、セシリアの息を呑む音が聞こえた。
軽蔑の言葉も、怒りの叫びも飛んでこない。
代わりに聞こえてきたのは、カサカサと羊皮紙が擦れる激しい音だった。
訝しんで薄目を開けた俺は、目の前の光景に絶句した。
「す、すごい……! なんという深遠な……なんという崇高な境地……!」
セシリアは丸眼鏡の奥の目をカッと見開き、狂気すら感じる熱量で手帳に羽ペンを走らせていた。
その顔は紅潮し、震える指先で猛烈な勢いで筆記を続けている。
「ま、待て。お前、何をメモしてるんだ?」
「すべてです! 一言一句、聞き漏らすわけにはまいりません!」
セシリアは顔を上げ、涙ぐんだ瞳で俺を見つめた。
「『森羅万象は演算の塊にすぎず、実体のない幻影である』……! これこそ、古代の失伝せし幻の教え――形あるすべての物質は本質において実体を持たず、大いなる空へと還るという、至高の悟りの真理そのものではありませんか……!!」
(……はい? それ、現世で言うところの『色即是空』じゃねえか)
思わず、俺の脳内ツッコミがフリーズした。
現世で般若心経に書かれていた、あの超有名な仏教哲学。
俺は単に「この世界はクソゲーMMOのポリゴンだから関わる価値がない」とネット掲示板のレスバ感覚で吐き捨てただけなのだが、この生真面目すぎる眼鏡シスターは、それを古代の究極教義として勝手にデコードしてしまったらしい。
「名前など識別コードにすぎない……ああ、なんという無我の境地! 名誉も地位も、肉体の苦痛すらも『一時的な幻影』として手放しておられるのですね……!」
「いや、ただの愚痴だが?」
「謙遜なさらないでください! この教えは、物欲にまみれた現代の光輪教会に雷鳴の如く突き刺さる革命です! 私はこの言葉を『街角の聖言録』としてまとめ、必ずや全土の修道士たちに共有してみせます!」
「勝手に俺のレスバを聖典化するな! 著作権侵害で訴えるぞ!」
頭痛を覚えて額を押さえる。
だが、恐る恐る視界の端のカルマ口座を確認したところ――数値は『535.00 pt』のまま動いていなかった。
(……ふぅ。セーフか……?)
どうやら、他人が勝手にメモを取って感動しているだけなら、直接的な「徳の付与」判定は下りないらしい。
これ以上の加算を食らわずに済んだことだけは、不幸中の幸いだった。
――と、安堵のため息を漏らしたその瞬間だった。
ズオォォォォン……!
大通りの中央広場の方角から、地鳴りのような地響きと、割れんばかりの大歓声が響き渡った。
『――カノン様ぁぁぁーっ!』
『導師様! どうか我が子に祝福をーっ!』
銀の鐘の音が鳴り響き、まるで天上の調べのような華やかなファンファーレとハープの音色が、街中の空気を震わせる。
路地裏の薄暗い隙間から見上げる空には、無数の光の粒子がキラキラと花吹雪のように舞い散っていた。
「あ……!」
セシリアがハッと顔を上げ、手帳を握りしめたまま広場の方角を指差した。
「大変です、聖者様! 光輪教会の最高指導者にして、大陸中で最も愛される奇跡の乙女――『光輪の導師カノン様』の巡幸パレードが始まりました!」
「カノン……?」
聞き覚えのない名前に眉をひそめる。
路地裏から大通りを覗き見ると、白銀の壮麗な馬車の上で、眩い金髪をなびかせた美少女が、民衆に向かって満面の笑みで手を振っていた。
彼女の背後には、くっきりと黄金に輝く巨大な「光輪」が浮かび上がり、通りを歩くだけで周囲の人々の病や怪我が湯気のように消え去っていく。
圧倒的なカリスマ。
だが、その光景を一目見た瞬間、俺の全身の毛穴が警戒で逆立った。
(なんだあいつは……全身から課金エフェクトを垂れ流してるぞ……?)
ただならぬ厄介ごとの気配が、大通りの輝きの中から確実にこちらへと近づいてきていた。
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### 【本話のカルマ会計報告】
- **開始残高**:535.00 pt
- **本話の増減**:±0.00 pt(教義記録のみのためシステム上の加算判定なし)
- **終了残高**:535.00 pt
- **現在の魂ランク**:平民上位(解脱可能基準値:0.00 pt まで、残り 535.00 pt の減算が必要)
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