第5話:光輪の街と過保護な見習いシスター
石造りの巨大な城壁が、青空を切り取るようにそびえ立っていた。
街道を歩くこと丸一日。
俺がたどり着いたのは、アストリア王国でも有数の宗教都市にして交易の要衝、『光輪の街サンクトゥス』である。
白亜の切石で舗装された大通りには露店がひしめき、商人や巡礼者たちの喧騒が絶え間なく響く。
辻には魔導水晶を掲げた街灯が整然と並び、遠くの中央広場には、天を衝くような大聖堂の白銀の尖塔が輝いていた。
王道ファンタジーの教科書のような活気に満ちた街並みだ。
だが、俺の気分は地の底まで沈み切っていた。
「……現在残高、五百十五ポイント」
視界の端に浮かぶ薄青いカルマ口座の数値を睨みつけ、俺は胃を押さえた。
開幕わずか三日。
元凶は、街道で出会ったあのアホの元盗賊ボルドだ。
飲み残しの水をぶっかけただけで「渇きを癒やす聖水」と曲解され、「悪人の改心ボーナス」として五百ポイントもの信仰徳を不正送金されたのだ。
五百十五ポイント。
真面目な平民が数年コツコツ善行を積んでようやく届く金額である。
初期残高ゼロからログアウトを目指していたはずが、たった三日で「徳の小金持ち」に成り上がってしまった。
(どうにかして、この忌々しい数値を減らさなければならない)
歩きながら利用規約の文面をめくる。
カルマを減らす最も手っ取り早い手段は「悪業」だ。
だが、規約第三十二条には凶悪な地雷があった。
重犯罪でカルマを急激にマイナスへ叩き落とした場合、アカウント停止(サ終)ではなく「地獄サーバーへの強制隔離送還」となり、灼熱の業火の中で永久にサーバー排熱処理のタスクを課されるのだ。
つまり、極端な悪行は御法度。
かといってポイ捨て等の軽微なマナー違反では零点零一ポイントしか削れない。
五百点もの黒字を帳消しにするには、地獄行きを回避しつつ、合法的に徳をドブに捨てる絶妙な運用が求められるのだ。
「……有給を全消化して完全退職したいのに、なんで異世界で逆張り資産運用なんて考えなきゃいけないんだ」
空腹でぎゅるりと鳴る腹を抱え、俺は中央広場へと足を踏み入れた。
すると、大聖堂の階段下で人だかりが見えた。
大きな鉄鍋から白い湯気が立ち上り、芳しい野菜とハーブの香りが漂ってくる。
「神の御慈悲を! 温かいスープをどうぞ、お並びください!」
鈴を転がすような少女の声が響いていた。
黒髪をおかっぱに切り揃え、銀縁の丸眼鏡をかけた若い見習い修道女が、木椀にスープを注いでは困窮者たちに手渡している。
清楚な修道服に、胸元の銀のペンダント。慈愛に満ちた眼差しは、まさに絵に描いたような聖職者だ。
炊き出しだ。
(……危険だ)
俺の危機管理センサーが警報を鳴らした。
最後に口にしたのは昨日の夕方の野草だけ。腹は極限だが、無償の炊き出しほど恐ろしい罠はない。
タダ飯を食えば魂に「感謝」のフラグが立つ。
システム上『徳の受領』として処理され、新たな加算判定を呼び寄せるリスクがある。
俺は視線を逸らし、炊き出しの列から離れて素通りしようとした。
だが――現実は甘くなかった。
「――あ、もし、そこの旅人様!」
甲高い声が背中に刺さった。
パタパタと小気味のいい足音が駆け寄ってくる。
丸眼鏡のシスターが、湯気の立つ木椀を両手で抱え、息を切らして目の前に回り込んできた。
「まあ……! なんて痛々しいお姿……!」
シスターは俺を一目見るなり、眼鏡の奥の丸い瞳を潤ませた。
ボロ布同然のチュニックに、街道の埃にまみれたズボン。頬はこけ、目は完全に死んでいる。
難民そのものの風貌だ。
「お腹を空かせておられるのですね? どうぞ、このスープをお召し上がりください! 神の光輪が、傷ついたあなたの魂を温めてくださいます!」
満面の笑みで差し出される木椀。
カブと鶏肉の甘い匂いに胃袋が悲鳴を上げる。
だが俺は歯を食いしばり、すっと右手を突き出して拒絶した。
「……いらん」
「えっ?」
「他人の施しは受けない主義だ。タダ飯ほど高くつく負債はない。不要な貸方データ(徳の債務)を俺のアカウントに刻むのはやめてくれ」
「ふ、負債……? アカウント……?」
困惑するシスターに、俺は冷淡に言い放った。
「お前たちが善意で配る一杯は、俺にとっては依存を生むトラフィックの無駄遣いだ。施しを受ければ義理が生じ、返済義務が発生する。俺は誰にも何も借りたくないし、貸したくもない。俺に関わるな。リソースを消費するな」
突き放すように冷徹に告げた。
これで恩知らずと罵られ、軽蔑の視線を受ければ、あわよくば微小なカルマ減算すら期待できる。
勝った、と俺は思った。
だが――。
「あ……あああ……!」
シスターの眼鏡の奥から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「……は?」
「な、なんという……なんという清廉潔白なお心……! 神の施しに安易に縋ることなく、自らの足で立つ尊厳を守ろうとしておられるのですね……!?」
「いや、単に人間関係のコストを切りたいだけで――」
「それだけではありません!」
シスターは俺の言葉を遮り、レンズをきらりと光らせた。
「あなたは……後ろに並ぶ貧しい民たちのために、自らの分け前を譲られたのですね!? ご自身が餓死寸前にあるというのに、他者を思い、欲望のスープを拒絶する……! これぞ古代の経典に記されし『自らを省みて民の罪を背負う、至高の苦行僧』のお姿そのものです……!!」
「待て。主語と述語の接続が狂ってるぞ」
「ああ、神よ! ただ哀れみを配るだけの私の浅薄な善意を、このお方は身をもって戒めてくださったのです……! おお、尊き巡礼の師よ……!」
シスターはその場でバッと膝をつき、胸の前で両手を固く組んで祈り始めた。
その瞬間。
ピロリン、と軽快な通知音が脳内に鳴り響いた。
『――システム通知――』
『【戒律遵守:克己ボーナス】が適用されました』
『飢餓状態において他者への施しを辞退し、自律の精神を貫いた高潔な魂を検知しました』
『付与カルマ:+20.00 pt』
『現在のカルマ総残高:535.00 pt』
「…………は?」
増えている。
飯を断っただけで。二十ポイントもの徳がチャリンと振り込まれた。
「なんで断ってもポイントが入るんだよおおおおおっ!!」
俺は頭を抱えて絶叫した。
押し売りを断ったら「断る勇気を称えて手数料を請求します」と言われたようなものだ。
完全な悪質ダークパターンである。
「ああ……! 天を仰ぎ、世界の理不尽に嘆いておられる……! 自らの功徳すら誇らず、世界の苦しみと一体化しておられるのですね……!」
シスターは懐から手帳と羽ペンを取り出し、猛烈な勢いで何かを書き殴り始めた。
「お、お待ちください、尊き苦行僧様! せめてお名前を! この見習い修道女セシリアに、あなた様のお名前をお教えください!」
「誰が教えるか! 個人情報を渡してメルマガに登録されてたまるか!」
俺は踵を返し、空腹も忘れて路地裏へ全速力でダッシュした。
「ああっ、お待ちになってください、名もなき聖者様ぁぁーっ!」
背後から響くセシリアの叫び声から逃れるように、俺は路地裏の闇へと飛び込んだのだった。
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### 【本話のカルマ会計報告】
- **開始残高**:515.00 pt
- **本話の増減**:+20.00 pt(【戒律遵守:克己ボーナス】施し辞退による自律判定)
- **終了残高**:535.00 pt
- **現在の魂ランク**:平民上位(解脱可能基準値:0.00 pt まで、残り 535.00 pt の減算が必要)
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