第18話:棒立ちスルーと「無血調伏」の奇跡
巨大な紅蓮の爪が、空気を切り裂いて頭上寸前へと迫っていた。
大理石の円柱ほどもある鋭利な爪先。
かすめるだけで人間の肉体などミンチになり、岩石すら粉々に粉砕する質量兵器だ。
熱波が前髪を焦がし、地面の小石が衝撃波でパラパラと跳ね飛ぶ。
「師匠ォォォォォッ!!」
レオンの絶望的な叫びが鼓膜を打った。
だが、俺の心拍計は、睡眠時以下の数値を叩き出していた。
身じろぎ一つしない。
目を閉じもしない。
防御の構えも取らなければ、反撃の魔力を練る気配すら微塵もない。
(さあ来い。痛覚パッチが作動する前に、一撃でアカウントごと吹き飛ばしてくれ)
俺の脳内を占めていたのは、ただその一念だけだった。
敵意ゼロ。
悪意ゼロ。
恐怖ゼロ。
現世という名のクソゲーに対する、完全なる興味の喪失――「無気力」の極致。
――しかし。
この「完全なる脱力」が、太古より生き続けるドラゴンの超感覚を、致命的なバグへと叩き落とした。
「――!?」
爪が俺の額まであと五センチに迫ったその瞬間。
紅蓮竜の琥珀色の瞳が、見開かれた。
ドラゴンは、知性の高い高等捕食者だ。
強大な敵と対峙した時、相手が放つ「殺気」や「魔力」、あるいは追い詰められた獲物の「恐怖」を感知して戦う。
だが――目の前のボロ布の人間からは、そのどれもが一片たりとも感知できなかった。
反撃の構えがないのではない。
生き物としての生存本能そのものが、完全に休眠しているのだ。
(な、なんだこの生物は……!? 我を前にして、心拍数が下がっている……!?)
ドラゴンの本能が、激しい警報を鳴らし始めた。
(殺気も敵意もない……! これは、我の攻撃など意にも介さぬという絶対的な強者の証か……!? あるいは、ここに爪を振り下ろした瞬間、世界の因果そのものが反転し、我の存在が虚無へと消滅させられる罠なのか……!?)
あまりの「無」を前にして、ドラゴンの過剰防衛本能が暴走した。
深淵を覗き込んだ者が深淵に呑まれるように、俺の圧倒的な無気力オーラが、竜の精神に狂気的なプレッシャーとしてのしかかったのだ。
そして――。
ピタッ。
振り下ろされていた巨大な爪が、俺の鼻先数ミリのところでピタリと静止した。
「……ん?」
風圧で前髪が揺れる。
痛覚もなければ、衝撃もない。
怪訝に思って見上げると、五十メートルの超巨大ドラゴンが、全身の鱗をプルプルと震わせて脂汗を流していた。
「おい、どうした? 早く潰せよ。業務を滞らせるな」
俺が不機嫌そうに呟いた、その瞬間だった。
ズズゥゥゥン……!
突如として、ドラゴンが前脚を折り曲げてその場にひれ伏した。
それだけではない。
巨体をぐるりと反転させ、白く柔らかい腹部を惜しげもなく空へと晒し、両前脚を行儀よく胸元で丸めたのだ。
「――グルルル……キュルルルルン……」
のどをゴロゴロと鳴らしながら、巨大な尾をパタパタと左右に振っている。
まるで飼い主の帰りを待っていた大型犬が、お腹を撫でてくれと甘えているかのような姿だった。
「…………は?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
なんで腹を見せてるんだこのトカゲ。
野生動物の降伏ポーズか? いや、完全に服従して懐いている時のやつだ。
「お、おい……冗談だろ……?」
岩陰から顔を出したレオンが、腰を抜かしたまま顎が外れそうなほど口を開けていた。
そして、遠巻きに見ていた公国の重装騎士たち、そして国境警備騎士団長が、わなわなと震えながら駆け寄ってきた。
「ば、化け物を……あの災厄の紅蓮竜を……!」
騎士団長は兜を脱ぎ捨て、涙をポロポロとこぼしながら、その場にドスンと膝をついた。
「剣を抜くこともなく……魔法を放つこともなく……! 一切の敵意を持たぬ無償の慈悲と、森羅万象を包み込む無我の境地のみで、あの狂暴なる災厄を懐柔せしめたというのか……!? これぞ……これぞ神話の時代にすら存在しなかった、『至高の無血調伏』の奇跡……!!」
「無血調伏の聖者様だァァァッ!!」
騎士たちが、避難民たちが、一斉に地面に額を擦り付けて号泣し始めた。
「待て。違う。俺はただ死にたかっただけで――」
俺の抗弁をかき消すように、脳内で過去最大のファンファーレが炸裂した。
ピロリロリロリロリロリロリロリロリロリーンッ!!
『――世界法務・神話級功績通知――』
『【神話級調伏:災厄の鎮圧】が執行されました』
『太古の災厄竜を武力に頼ることなく、無我の境地をもって心服せしめた究極の徳を検知しました』
『付与カルマ:+2,000.00 pt』
『現在のカルマ総残高:4,600.00 pt』
『判定ランク:大貴族 ➔ 【国家英雄域】へ王手!』
「にせええええええええんぽいんとおおおおおおっ!?」
俺は頭を抱えて絶叫した。
二千ポイント。
一撃で二千ポイントの超特大爆撃。
残高は瞬く間に四千六百ポイントへと跳ね上がり、国家英雄の領域へとリーチがかかってしまった。
「なんでだよおおおおおおおっ!! 死なせてくれなかった上に、なんで二千ポイントも押し付けてくるんだよおおおおおっ!!」
俺の悲痛な絶叫に応えるように、巨大なドラゴンが「キュルルン☆」と可愛らしく甘えた鳴き声を上げ、巨大な鼻先を俺の頬にすり寄せてきたのだった。
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### 【本話のカルマ会計報告】
- **開始残高**:2,600.00 pt
- **本話の増減**:+2,000.00 pt(【神話級調伏:災厄の鎮圧】無我の脱力による紅蓮竜の無血調伏判定)
- **終了残高**:4,600.00 pt
- **現在の魂ランク**:国家英雄域リーチ(解脱可能基準値:0.00 pt まで、残り 4,600.00 pt の減算が必要)
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