故郷の屋敷で母の思い出に触れた姫君はトロール世界の法律で宰相に反撃する
さらに7日後の朝、旅装のリーヴは再び、リッカウにいた。
帰りついたのは、辺境伯であった父コーフタロが家族のために建てた屋敷である。
その裏手へと回ると、朝食の準備を監督していた女中頭が、エプロンで手を拭いながら駆け寄ってきた。
リーヴは、いつものように、砕けた言葉で語りかけた。
「浴室を借りるわ。王都から歩きづめに歩いたの、昼も世もなく」
王太子の婚約者であった頃は、王宮のサイに引かせた車で旅ができた。
その資格を失えば、自分の足で帰るしかない。
女中頭はいたわしげに答える。
「お許しを。宰相様のご命令で、ここをお使いにはなれないのです」。
予想はしていたが、父に代わって辺境伯となったスヴェンが主として振る舞っているのだ。
それでも、リーヴは平然としたものだった。
「女中の風呂場を貸してほしいの。自分で沸かすから、いいでしょう?」
自分たちの分だけではあるが、朝食の準備を投げ出した女中たちが厨房から駆け出してきた。
誰もが、エプロンを顔に押し当てて泣いている。
「申し訳ありません、何のお役にも立てないで」
リーヴは、ひとりひとりの頭を撫でながら、その風呂場へと歩いていく。
「いいのよ、自分のことは自分でするだけだから」
窓から朝の光が差し込んでくる浴室で、リーヴは湯船の中からかざした青銅色の腕を撫でながら考えた。
「さて、これからどうするか」
宝石のような水滴が、豊かな胸元へと滑っていく。
この身体一つで、トロールの世界を生き延びていかなければならない。
生まれ育った屋敷でさえも、今では宰相スヴェンに押さえられている。
「まずは、先立つものが必要ね」
湯の中から立ち上がったリーヴの引き締まった身体が、柔らかな光の中で煌めいた。
ローブを羽織って、女中たちの出払った廊下に出る。
領主の屋敷といっても、それほど大きなものではない
しかし、石と積み重ねた漆喰を塗ったレンガを組み合わせた、頑丈なものである。
武人としての父の暮らしは質素なものだった。
それほど歩かなくても、母の使っていた部屋に入ることが出来た。
「帰ってまいりました、母上……」
幼い頃に亡くした母カオ―ニスは、法律家でもあった。
部屋いっぱいの棚を埋め尽くす本の中から、民法に関するものを取り出して開く。
確かめてみると、そこには、こんな条文があった。
ある身分に対して与えられたものは、人に属することはない。
つまり、王太子妃として国庫から支出された身の回りのものは、全てイーニャのものになったということだ。
必要なものがあれば、これからは貯えを食いつぶすしかない。
リーヴは、ため息交じりにつぶやいた。
「売り払うしかないか」
さらに別の条文を探すと、こう記されていた。
地面の権利の持ち主といえども、その上に建つものを自由にはできない。
スヴェンの手にある屋敷であっても怖じることがなかったのは、これをおぼろげながら覚えていたからだった。
生前の母の言葉から、聞きかじったことだ。
リーヴの腹は決まった。
「耐えられないわ、私のものでない土地に住まわせてもらうなんて」
リーヴは新たな旅装を身にまとうと、ユルムスの侵攻を退けて以来、スヴェンが居座っている城へと向かった。
周りには、やはり私兵たちがたむろしていたが、リーヴの姿を見ると、一斉に道を開ける。
リーヴは、自信たっぷりに微笑んだ。
「お勤め、ご苦労さまです。どうぞ、宰相様にお取り次ぎを」
領主の部屋に通されると、大きな机の向こうにスヴェンの姿があった。
「このうえ、私に何の御用でしょうかな? 前の領主の娘御がわざわざ足を運ばれるとは」
馬鹿丁寧な物言いを聞き流しながら、リーヴは、かつては父のものだった部屋を見渡した。
石が剥き出しになった壁には、もう、コーフタロ伯の名残はない。
「辺境伯の屋敷を売りに参りました」
怪訝そうな声が答える。
「はて、父君に代わって辺境伯に任ぜられた私に、辺境伯の屋敷を買えとは奇妙な話」
そこでリーヴは、首を傾げてみせるスヴェンの顔を眺めた。
法律家カオ―ニスの娘として、宰相が見落としていた、法の定めるところを噛んで含めるように伝える。
「地面の権利の持ち主といえども、その上に建つものを自由にはできない……ご存じですね?」
目をしばたたかせたスヴェンが何も言えないうちに、リーヴはきっぱりと告げた。
「領地は引き渡しますが、屋敷に住む権利は、まだ私にございますので」




