宰相の娘から怨嗟の声を浴びた王太子妃は、王太子から婚約破棄を告げられます
イーニャの身体が震えだす。
微かな声が漏れた。
「そうよ……私は所詮、成り上がり者の娘だから」
気圧されたリーヴは、思わず沈黙する。
やがて、心の底からあふれ出たようなイーニャの言葉が、その唇をわななかせた。
「あなたは、最初から何でも持ってた。豊かなリッカウで生まれ育って、上流貴族の両親に大事に育てられて」
貴族が故郷だけではなく、両親の名前を出された以上、侮辱されたままではいられない。
「母は、私が幼い頃に死んだわ。私を屋敷に置いて、たまたま遠くの牧場まで出かけてたとき……」
はっきりとは覚えていない母の顔が、ふと心の奥をよぎる。
涙が溢れそうになる目を、イーニャが薄笑いを浮かべて見つめているのが分かった。
瞼を固く閉じて、無知な相手をたしなめるように付け加える。
「リッカウは穀倉地帯だから、隣の国のユルムスからしょっちゅう攻め込まれてるのよ」
それが癇に障ったのか、イーニャは冷たく言い返した。
「だから余計に、あなたは誰にでも認められた。かわいそうだからって」
書き付け2通だけで領地と爵位を奪った宰相の娘に蔑まれているのかと思うと、腹立たしかった。
イーニャは、何も分かっていない。
故郷と両親への思いが、言葉となってほとばしる。
「努力したわ! リッカウを守るために。父からは、戦うための武術と、戦わないための詩や舞を教わった。母からは、法律を……」
見開いた目の向こうで、イーニャの姿がにじむ。
泣きだしそうなのを悟らせまいと、ほんの一瞬だけ、指で瞼の前を掠める。
そこで見たものは、目に涙を浮かべたイーニャの冷笑だった。
「そうね。リッカウ伯爵コーフタロは文武に優れ、奥様のカオーニスは法律家。おかげで、あなたは幼いころから賢い姫君としていつも褒められてきた」
リーヴは無言で、その言葉を受け止めた。
これ以上、何か言えば、自分だけでなくイーニャも泣き出してしまう。
ふたりきりなのがいけないのだ。
早く、誰かに入ってきてほしかった。
この謁見の間にふさわしい、誰かに。
さっきイーニャが入ってきた扉の奥から、部屋付き小姓の高らかな声が聞こえた。
「王太子殿下、お成りにございます!」
ようやく、リーヴの声は平生に戻った。
「イーニャ、頭が高いわ。そのくらいの礼儀は心得ているでしょう?」
だが、イーニャがひざまずくことはない。
その後ろから、真っ白なガウンをまとったレイフが現れた。
貴族たちを集めた朝礼のときの衣装である。
「人が集まる前に話を済ませようと思ってな」
リーヴは頷いて、イーニャに告げた。
「あなたと話すことはもうないわ。私もレイフと話を済ませなくちゃ」
イーニャが、レイフにちらりと振り向いた。
目を交わしたかと思うと、リーヴに向き直って傲然と告げる。
「このままリッカウへ帰った方がいいんじゃなくて? ぐずぐずしていると、いい笑いものよ」
眉を寄せるリーヴの前で、王太子レイフは困り果てたように、イーニャの肩へ手を置く。
「もうよせ、僕は今日、今日はそんなことを言いに来たんじゃない」
思わず、息が止まった。
認めたくはないが、何が起こったのかは察しがついた。
イーニャはというと、堰を切ったようにまくしたてる。
「本をただせば小役人の娘だなんて言われたくなかった。だから一生懸命やってきた。でも、リーヴには敵わない。だから、しきたりも守ってきた。でも、リーヴは……」
あとは再び目を怒らせることしかできなかったが、そこで後ろからレイフに抱き寄せられる。
それでもリーヴは、あえて首を傾げてみせた。
「私が、どうしたというの?」
王太子の腕をゆったりと解いたイーニャは、憐れみをこめた眼差しをまっすぐに向けてくる。
口元を歪めて、ひとことずつ噛みしめるように宣言した。
「リーヴは、私に敵わない。レイフの心はもう、私のものだから」
そんなことはもう、見当がついていた。
「……どういうこと? レイフ」
裏切りへの抗議と詰問に、王太子レイフが怯むことはない。
「権威あっての王家だ。家格にふさわしい持参金のないあなたに、王家を継ぐ私と結婚する資格はない」




