若き貴族隊員は女詐欺師に失態を晒したのを恥じて、王都警備隊長の前から姿を消す
遠い昔、小国の一貴族に過ぎなかった男に、夫の浮気を理由に出奔した大国の王妃が押しかけ女房となって嫁いだ。
その際、その国土の半分を持参金にして建てられたのが、メンシュリヒ王国である。
妃は軍事的才能に長けた夫と共に、先の夫の国を滅ぼして併合した。
ところが、王となった男には死んだ先妻との間に第一王子があった。
後妻となった妃との間にも、第二王子が生まれた。
両親が没した後、第二王子は第一王子に、実母が持参金としてもたらした国土を要求する。
内乱を避けたい第一王子は、王位継承権と引き換えに、弟が大公を名乗ることを許した。
これが、ウィキナ大公国の始まりである。
その後の代も、たびたび紛争が起こったが、飛び地のやり取りで全面戦争は回避されている。
ホーグモッド家の長子イリミエにとっては、耳にタコができるほど聞かされてきた話だった。
それを延々と語ったストゥラッテグ伯爵は、笑顔で宣告した。
「……というわけで、あなたを領土侵入の現行犯として、ウィキナ大公国に移送します」
だが、その日の午後、イリミエはメンシュリヒ王国の王立病院で、王都グランナミア警備隊長の前に立たされていた。
リーヴが帰った後の病室である。
ヴォーダンはベッドに座って、低いが厳しい声で尋ねた。
「それが、どういうことか分かってるな?」
「……早い話が、人質です。身代金か、飛び地を取るための」
縮み上がるイリミエを、さらにヴォーダンは問い詰める。
「そのためには、少なくとも公国からの移送隊か、飛び地からの傭兵団がメンシュリヒ王国を通過しなければならん。つまり?」
「我が国の領土で、他国の軍隊の自由を許すことになります」
その答えだけでは、合格点は得られなかった。
ヴォーダンは、イリミエを見据えた。
居住まいを正して、めったに口にしてはならない人の名前を挙げる。
「国王の体面にもかかわる……王都警備隊員が連れ去られたとなっては」
そこで、イリミエは恐る恐る尋ねた。
「あの……どうして、僕は、ここに?」
ヴォーダンは、がっくりと肩を落とす。
「お前を拉致でなく連行とするには、王国の外交部に申し入れねばならん。その担当者が、最高司祭様に情報を流した」
イリミエは、あっという顔で赤面した。
「申し訳ありません、隊長に恥を……」
そういう問題じゃない、とヴォーダンは目を剥いた。
肩をすくめるイリミエの前で、ぶつぶつとぼやく。
「たかが警備隊長の俺が、恐れ多くも陛下の頭越しに、最高司祭様と宜しくやってるみたいじゃねえか」
「いいえ、最高司祭様は、心から隊長を信頼なさって……」
きっぱりと告げるイリミエの言葉を、ヴォーダンはひと睨みで遮った。
「そのために、ウィキナ公国の最高司祭から手を回してもらったってのか? 偉くなったもんだな、俺も」
皮肉っぽく自嘲したところで、イリミエを怒鳴りつける。
「そんな話をしてるんじゃねえ……思い付きでものを言うな!」
リーヴは、何度も何度も頷いた。
「……それで、逃げてしまった、と」
「俺が怒鳴ったからじゃない……たぶん」
叱られた子どもの言い訳のように、ヴォーダンは口先でぶつぶつと答えた。
ベッドから立ち上がると、大きなカバンにまとめた荷物の中から、一冊の革表紙の本を取り出す。
「ちゃんと調べたと言うから、どこの地図見たんだと聞いたら、こいつを出してきた」
見覚えのある本に、リーヴは息を呑んだ。
だが、ヴォーダンは気付かない。
イリミエの口真似をして、しおりを挟んだページを開く。
「すみません、実は、これです」
そこには王都の端と、そこから少し離れたところにある小さな森が描かれていた。
地名を書いた文字が読み取れるのは、トロールの身体が秘めた魔力のおかげだろう。
それにしても、開いたそばから必要な知識を示すことは、これまでなかった。
イリミエの場合と違って、トゥオーマリが人間世界に足を踏み入れた理由については、この本では分からなかったからではないか。
そんなことを考えながら見入っていたのを、難しい話をしてしまったと誤解したのか、ヴォーダンが説明する。
「夕べ、商工ギルドの鑑定士を呼んで見てもらった。本そのものは400年くらい前のものだから、今の集落があるはずはない、と」
「集落……?」
本との脈絡が分からず、リーヴは戸惑う。
そこでヴォーダンは、鑑定士から聞いたことを付け加えた。
「地図に載っている森は、すでに切り開かれて畑になっている。今あるのは、100年くらいかけて出来上がった新しい森らしい」
それで、イリミエの話が理解できた。
王都警備隊に頭を下げたのは、森を切り開いた土地を耕す、メンシュリヒ王国の農民である。
先の見通せる明るい森は、ウィキナ大公国の貴族の別荘地だったのだ。
三度にわたる活躍で妙な自信をつけたばかりに、イリミエはヴォーダンにもリーヴにも、顔向けできなくなってしまったのだろう。
だが、ヴォーダンは「人間世界の知識を網羅した本」を胸に抱えて、素直に反省の言葉を述べた。
「まあ、俺に学があれば、言われんでも分かったことだ」




