サイを駆って荒廃した領国に帰ったトロール姫は、宰相の私兵を制圧する
ヒルヴィーオ王国は広い。
海に面した南の端ソーデルから、北の端のリッカウまで、疲れを知らないトロールの足で10日はかかる。
眠らなくても走り続けられる伝令が力の限り夜に日を継いでも、やっと7日である。
泥のように眠り込んだ伝令を老領主に託したリーヴは、乗って帰るためにサイを借りることにした。
戦や祭事のときぐらいにしか使われない、王族や貴族、富豪の乗り物である。
サイ舎の番人が鞍を着けている間に、老領主への礼を述べる。
「来るときには車を引かせましたが、レイフが乗っていってしまいましたので」
リーヴがサイにまたがると、宴席の客を帰した老領主は、ゆっくりと頷いた。
「何かの弾みに人間などがやってきてもたかが知れておりますが、それも20年以上は昔のこと。ユルムスの侵入は、いつ大戦になるやもしれません。数はなくとも備えはしております」
「備えが無駄になるのを祈るばかりです」
リーヴはサイを歩ませながら、皮肉っぽく片頬を上げた。
「情けない婚前旅行になりましたこと」
老領主は、深々と頭を下げた。
「リーヴ様には、護衛も召使いも必要ない方でいらっしゃいますれば」
リーヴは、たったひとりでサイを走らせた。
本当なら、伝令のように夜中も走り通したかったのだが、サイは眠らせないと走れなくなる。
昼間は駆け続け、夜は共に眠って、5日でリッカウへ着くことができた。
広大な田園の彼方には、急峻な山岳地帯の稜線がぼんやりと見える。
そこから流れ出す大河が、対岸の険しい山の向こうにある隣国ユルムスとの国境になっている。
他国の垂涎の的となる穀倉であり、その侵攻を防ぐ最前線であるという領内に入って、リーヴは呻いた。
「これは……」
半月ほど前の戦闘は、あちこちに爪痕を残していた。
秋の収穫を待つばかりだった畑は荒らされ、雑木林の木々は黒焦げになって倒れ伏している。
藁葺き屋根の家を破壊されたトロールたちが、柱や梁の断片を拾い集めては組み合わせたり立ち上げたりしていた。
それでも、ドレス姿でサイにまたがるリーヴを見かけると、深々と頭を下げる。
つい、いたたまれなくなって、主を失った城へとサイを走らせた。
「許せ。今、してやれることは何もない」
やがて、鉄帽子や胸当てだけしか身に着けていない兵士たちが、道端に増えてきた。
「スヴェン殿の私兵ですね……」
小高い丘を登って城門まで来れば、父の育てた兵士たちが、軽装とはいえ兜も鎖帷子も整った姿で出迎えるはずだった。
だが、目の前でハルバード《斧鉾》を交差させたのは、宰相スヴェンの私兵たちだった。
リーヴは、雑然とたむろするトロールたちを、サイの上から見据えた。
「リッカウ辺境伯コータフロの娘、リーヴである。通しなさい」
だが、誰一人として従う者はなかった。
ぞろぞろと集まってくると、ドレスの胸元やら裾やらを眺め渡す。
ついには、ハルバードの穂先でスカートをめくり上げようとする者まで現れた。
「無礼者!」
怒りで荒らげた声は、羞恥のあまり裏返る。
私兵たちがどっと笑う中、スカートは高々と跳ね上げられた。
だが、私兵たちの下卑た歓声は、その喉の奥へと飲み込まれた。
スカートの下から現れた、サイの胴体を締め付ける、逞しくもすらりと伸びた脚に目を奪われたからではない。
その隙に奪われたハルバードが、一陣の旋風を巻き起こしたからだ。
私兵たちが揃って一歩退く。
腰を抜かしたトロールの首元には、ハルバードの穂先の斧が押し付けられていた、
今にも首を刎ねられそうになって青ざめる私兵を見下ろして、リーヴは一言だけ尋ねる。
「何か見ましたか?」
首を横に振るのが精一杯で、返事もできないらしい。
リーヴは、静かに、重々しい声で告げた。
「口外すれば、命はありません」
返事はなかった。
私兵たちは恐怖に震えて、身動きも取れない。
しかし、城門を塞いでいる跳ね橋は、誰が命じたわけでもないのに堀へと下りてきた。




