令嬢の起こしたトラブルに乗じて逃げ出したトロール姫は、暗闇の中で正体を現して暴れます
リーヴが言葉巧みに、最低限の金貨でルビーを買い取ったときのことだった。
元の持ち主だった貴婦人が、お付きの少年に金貨の袋を持たせて立ち去ったところで、パーティー会場では甲高い悲鳴が上がった。
「誰か! 誰か! レイングタン家のお嬢様が!」
用が済んだら、人知れずこの場を立ち去るつもりだったが、つい、そちらを眺めやって茫然とした。
そこには、トロールもかくやという勢いで、テーブルの上の料理や酒を口に運ぶ娘がいた。
マサイルだった。
あの薬のせいだと思い当たるのには、少し時間がかかった。
「……なんてものをくれたのよ、レイフ」
つい毒づいてしまったが、そのとき婚約者だったリーヴに、こんな危険な薬を渡すわけがない。
おそらく、人間とトロールでは体質が違うのだ。
やがて、暴飲暴食の果てにマサイルは卒倒してしまった。
パーティーの会場は大騒ぎになる。
「医者を呼べ!」
誰かが叫んだ。
とっさにリーヴは答えた。
「私が!」
大広間を駆け出したが、玄関からひとりで出ていけば、誰かに姿を見られる恐れがある。
手近な窓から庭へ飛び降りると、ドレスは黒装束に変わった。
夜闇の中でも目立つ金髪も、覆面とマントの中に隠れてしまっている。
やや傾いた欠け始めの月に、庭は青く照らされている。
その中を全速力で駆け抜けたリーヴは、端にある高い塀を軽々と跳び越えた。
王都警備隊の中で、余計な仕事に悪態をつくのはイリミエと相場が決まっていた。
「何で、たかが貴族の坊やの誕生会を我々が警備しなくちゃいけないんですか」
王宮からの命令だった。
クロンヒット侯爵邸の塀を背に、細い月が掛かった暗い夜空を見上げながらぼやくと、隊長ヴォーダンは鼻で笑った。
「そのうち、お前のも引き受けてやるよ……王都中の要人が集まるんならな」
イリミエはふてくされた。
「どうせ私はアーデル殿ほど見栄えはしませんし」
美男子目当てに集まる貴族たちが興ざめしないよう、武装した無粋な警備隊は暗くなってから集合せよと命じられていたのだった。
「だいたい誰だ、こんなくだらん命令をよこすのは」
見も知らぬ相手に、ヴォーダンも毒づく。
そこで、屋敷の中から悲鳴が聞こえてきた。
行って見てこい、とヴォーダンは貴族隊員のイリミエに命じる。
マントに白い線で染め抜かれた一角獣と飛竜が夜闇の中へと消えていった。
そのときである。
ヴォーダンの目の前へ降ってきたのは、後ろ向きの黒装束だった。
「何者だ?」
剣を抜いて、黒装束の背中につきつける。
「抵抗は無駄だ。素直に近くの詰所まで来れば、手荒な真似はせん」
黒装束は答えない。
ただ、振り向きざまに手を一振りしたばかりである。
突然現れた、ブロンズ像のような太い腕がヴォーダンを襲う。
跳びすさって斬りつけたところで、剣の刃先が布のようなものをかすめた気がした。
しまった、とリーヴは思った。
魔法の衣を脱ぎ捨てる手を振るって、腕でヴォーダンを吹き飛ばすつもりだったのだ。
逃げようとすれば背中から斬りつけられる。
それを避けようとしたのが裏目に出た。
衣のどこかに、裂け目ができたことだろう。
こうなったら、完膚なきまで打ちのめすしかない。
剣を斬り払ったヴォーダンの顔に、空いた手を握りしめた拳を叩きつける。
それを紙一重でかわされたリーヴは呻いた。
「な……」
その声が、闇夜の中で低い咆哮となって響いたのが分かった。
どうやら、魔法の衣を脱ぐと、声と言葉はトロールのものになるらしい。
人間世界で言葉が通じるのは、トロールの魔力ではなかったのだ。
一瞬だけ、緊張で目を見開いたヴォーダンは何か叫んで、袈裟懸けに斬りつけてくる。
確かに、速い。
それでも、リーヴは吼えた。
「甘い!」
人間とトロールでは、腕力が桁違いなのだ。
剣を振るう腕を引っ掴むと、その身体を横薙ぎに投げ飛ばす。
月明かりの下、地面で二度、三度と鞠のように弾んだヴォーダンは動かなくなった。
……死んだ?
そう思ったとき、王都グランナミア警備隊の隊長は、荒い息をつきながら、剣を杖代わりにして立ち上がった。
だが、その足は、膝からがっくりと折れた。
再び倒れ伏したヴォーダンに、リーヴはゆっくりと歩み寄った。
弱者は徹底的に打ちのめすのがトロールの流儀だ。
……首元を掴んで、へし折れば止めを刺せる。
分かってはいるのだが、リーヴはそこに佇んだままだった。
そこへ、高らかに鳴る笛の音が聞こえた。
振り向くと、何人もの警備隊員たちが駆け寄ってくるのが見える。
仲間を呼ぶ合図だったらしい。
さっき、塀にヴォーダンを叩きつけた音が聞こえたのだろう。
……皆殺しにしようと思えば、できるが。
そのとき、以前に聞いた言葉が耳の奥に蘇った。
たとえ悪人でも、殺させはしない。
気が付くと、魔法の衣だけを手に、その場から逃げ去っていた。
本気を出したトロールの足に追いつける人間など、いはしない。
だが、牙を覗かせた口からは、ふと、つぶやきが漏れた。
「……どうして?」




