トロールに遭遇した頑固な老学者は、女詐欺師への怨念を吐き出す
警備隊の本部は、王都グランナミアの中心にある。
王宮へ続く目抜き通りに面しており、市街地の東西南北、どの端へも最短の時間で駆けつけることができるからだ。
ある夜半のことである。
隊長として自ら当直を務めていたヴォーダンは、その真っ暗な石畳の道を馬で疾走していた。
「化け物が出た? バカバカしい」
「トロールだそうです。話は本人から聞いてください」
貴族隊員尾のイリミエに案内されるままにたどり着いたのは、王都に何十あるかも分からない、路地裏の詰所のひとつだった。
その取調室にいたのは、痩せて目ばかりがぎらつく割には幼い顔立ちをした中年の男である。
「遅い」
椅子に掛けたまま、不機嫌な顔で文句を言う。
普段は冷静なイリミエも逆上した。
「夜中に我らの眠りを妨げた調本人が何を……」
後は言葉にならない。
おかげで、口下手なヴォーダンがなだめるのにも、それほど手間はかからなかった。
「まあまあ……まずは、話を聞くのが我々の仕事だ」
口元をひくひく震わせながら、イリミエはヴォーダンに肩を抱えられて壁際に座る。
学識の豊かさで知られた高名な学者ストゥタもまた、やり場のない怒りで顔をしかめている。
部下の代わりに対応した警備隊長ヴォーダンは、事情を聴きだすのにたいへん難儀することになった。
それは、昨日のけだるい、薄曇りの昼下がりだったという。
ストゥタは、王都の家々の間にひっそりと購入したわび住まいで、古い書物を読みふけっていた。
そこそこの年になるまで少しずつ溜めた金を書物に費やすため、王都中を捜し歩いて手に入れた、タダ同然のあばら家である。
おかげで、尋ねてくる友人もなく、死ぬまで誰に気兼ねすることもない。
気楽な生活だったが、珍しく戸を叩く者があった。
「誰だ?」
苛立ちがそのまま表れた顔を、外へ突き出してやる。
「帽子はいかがでしょう?」
フード付きのマントを羽織った女が、くるっと背中を向けた。
派手な色と形をした帽子が、背負子にいくつも掛かっていた。
「間に合っとる。帰れ」
それでも、この行商の女を迎え入れてしまったばかりか、書物に費やす金をすっかり騙し取られてしまったのには、理由がある。
全ては、この囁きから始まったのだった。
「ご存じですか、あの噂」
この数日で、それが意味するものは一つしかない。
一も二もなく、ストゥタは帽子売りの女を家の中に引っ張り込んだ。
よく見れば、帽子の行商人にしては美しい
人気のない裏路地ではあるが、傍目にはどう誤解されるか分かったものではないと思って焦った。
「ものの分かった方と思っておりましたのに」
火に油を注ぐと分かっていたので、帽子売りの女に化けたリーヴは名前を敢えて口にしなかった。
高僧ヒーモーと関わって大恥をかいた、あのエーデル侯爵夫人のことである。
誰かは分からないが、お互いに若い恋人を探し求めて、思わぬ老いらくの恋を晒してしまった僧侶と老貴婦人がいるという噂は、あちこちで嘲笑の種になっていた。
ストゥタも深く、幻滅のため息をつく。
「そもそも、誰しも年を取るものではないか」
とりあえず、それはそうでございますね、と相槌だけは打っておく。
すると、幼い顔立ちをした中年の学者は、貧弱な身体を震わせた。
「だいたい、誰しも、持って生まれた分というものがある」
ああ、そうでございましょうね、となだめてやる。
ストゥタは、痩せた身体を吸い込んだ息で大きく膨らませると、一気に不満を並べ立てた。
「かつては忠臣たるもの、主君が言葉一つで侮辱されようものなら命を捨ててもその恥を雪ぎ、主は家来の命を救うために、跡を継ぐ者はいくらでも居ると自ら虜囚の身となり、貞婦は二夫にまみえず、貴族は国家の名誉のために品格を守り、民は国を支えるためにその職に勤しんでおったというのに今は……」」
「世の中そのものも年を取ると思えば……」
だが、ストゥタは耳を貸そうともしない。
「主を主とも思わず、主たる自覚もない。妻は夫に仕えるのを忘れ、若い者は身分をわきまえん」
「勇気を持って、お声を上げなさったらいかがでしょうか?」
ストゥタは言葉に詰まったが、こんなことを言ってごまかした。
「いや、これで天の声でも聞こえれば、誰しも己の内なる善き心に恥じて、行いを改めようが……」
リーヴは確信した。
こいつは、カモだ。
そこで、すかさず話を盗む。
「つまり、姿が見えなければいいのですね?」
売り物の中で、いちばん地味な平たい灰色の帽子は、法外に高かった。
書物にしたら、何十冊分にもなる。
それでも、ストゥタは勧められるまま、半信半疑でかぶってみる。
「まさか、これで姿が見えなくなるなど……」
カペリエラと名乗った帽子屋と共に、日の傾いた街を歩いてみて驚いた。
ストゥタはこの王都でも名の知れた学者だが、誰も頭を下げないどころか、男がカペリエラに見とれても、女はストゥタに見向きもしなかった。
日が暮れる頃になると、雲は分厚く垂れこめてくる。
薄暗い家の中に帰ったところで、テーブルを挟んでの商談が始まった。
カペリエラは自信たっぷりに、帽子の効能を述べ立てる。
「これで少なくとも、大人になった人間に見えることはありません」
「純真な子供には見えるのか?」
からかってみると、帽子屋は少し戸惑いながら答えた。
「そういうときもあるかと」
すかさず念を押す。
「やりたいことはし放題ということか?」
「まあ……そう言えなくもありませんが、相手のすることには決して手を出さないでください」
そこで、ストゥタはとどめのひと言を放った。
「つまり、天の声を伝えろということじゃな?」
帽子屋は、咳払いひとつして、居住まいを正してみせる。
「そうお思いでしたら、お気をつけて」
それは、この帽子の不思議を信じるか、信じないかという意味である。
誰に憚ることもなく、自ら正義を行うことのできる道具を……。
やがて、なけなしの金貨の袋を代価に支払ったストゥタの耳に、意気揚々とした帽子屋の歌が聞こえてきた。
そうそうカッカしなさんな
世の中は悪くなるものさ
人のするこたどうにもならぬ
だいたいあなたにゃ関係ない




