トロール姫の甘言が老いた高僧の秘めた欲望を炙り出す
王都グランナミアの朝は、季節がいつだろうと早い。
侍僧が鐘楼へ向かうのを確かめて、グランナミアでも名の知れた高僧ヒーモーは、自らの教会の外へ出た。
「よい朝には、よい気持ちで、よい仕事を」
神への祈りと共に、灰色のレンガを積み重ねた聖堂を見上げる。
夜明けの鐘が響き渡るのを確かめて、ふとつぶやいた。
「あれから、どれほど経ったか」
鐘を鳴らす侍僧として修業を始めてから、50年は経っている。
だが、どれほどの地位に就こうと、どれほど侍僧を従えようと、欠かさないことがあった。
王都のあちこちで鳴る鐘の音を聴きながら、箒を手に、扉の前の石階段から辺りの道までを適度に掃きはじめる。
こうしていると、起きて働く人々との、多くの出会いがあるのだ。
近くの商家から駆けてくる、奉公したての少年。
繰った内職の糸を背負って市場へ向かう、腰の曲がった老婆。
夜遊びから帰ってきた、酒臭い放蕩息子。
だが、こんな歌声を聞いたのは初めてだった。
助平根性はどうにもならぬ
腹いっぱいでも抑えが利かぬ
葡萄酒詰めた革袋並みに
抑えりゃどこかが膨れて弾ける
下品この上ない戯れ歌だが、その声は天上から降り注ぐかと思われるほど澄み渡っていた。
どこまでも連なっていく街路端の屋根の向こうに、朝日が昇る。
吹き抜ける風の中を歩いてくる娘の、まばゆいばかりの金髪がこぼれる。
酒場の踊り子か何かだろうか。
「おはようございます、ヒーモー様」
恭しく一礼する、仕事帰りと思しき酒場の娘に、咳払い一つだけして挨拶する。
「あなたに、今日も神のお恵みがあらんことを」
思えば、貴族の四男に生まれ、出世した長兄や、やりたい放題の次男や三男を見返したい一心で修行に励んできた日々だった。
その中で、抑え込んできたものが頭をもたげる。
ヒーモーにしてみれば、外での立ち話のつもりだったのだろう。
だが、踊り子タンシーヤと名乗ったリーヴにとって、聖堂の中で朝の説法前の時間を浪費させるのは造作もなかった。
「私の遠縁の若者が、よい相手を探しているのです」
若い妾が欲しいだけでしょうに、と腹の内でリーヴは毒づく。
神の聖堂に立って、ありもしない嘘をついていることへの恐れは、手に取るように分かった。
最前列の長椅子の端に腰掛けたまま、軽い口調で話をそらしてやる。
「一番上のお兄さまには、美しい奥方をお迎えになり、見目麗しい後継ぎを得られたとか」
もう何十年も会っていないことは、すでに調べ上げてある。
さらに、あまり聞かれたくないと分かっていることまで口にした。
「上にもう二人、お兄さまが……」
「いえ、どこでどうしているか存じません、お恥ずかしい」
ヒーモーは慌ててごまかす。
二人とも、身分の貴賤を問わず、名だたる美女たちと浮名を流した挙句の話だから、無理もない。
だが、そこで高僧の頭をかすめたことを、リーヴは一瞬の虚ろなまなざしから察していた。
ヒーモーが目をそらそうとする直前に、リーヴが豊かな胸の谷間から取り出したものがある。
「良いものがございます」
ほう、とヒーモーが息を漏らした
「玻璃の眼鏡とは……隣のウィキナ大公国の港にしか入ってこないものですが」
いかにも感心したかのようだが、本当は、黒雲のように湧き上がる邪な思いを押し殺しているからにほかならない。
リーヴは、艶然と微笑んだ。
「お似合いの相手を探す眼鏡でございます」
その一言に、ヒーモーの背筋が凍る。
つい考えてしまったことを、言い当てられたような気がしたのだった。
それでも、恐る恐る眼鏡をかけてみる。
「……何と!」
澄んだ玻璃越しに見える女の肌は青銅色にぎらつき、その口元からは白い牙が覗いている。
関わってはいけない、魔物の姿がそこにはあった。
慌てて眼鏡を外すと、雪のように白い肌をした金髪の娘は、おどけたように微笑んだ。
「もちろん、私ではございませんわ」
そこで、聖堂の扉が開いた。
娘は囁く。
「この眼鏡、お気に召しましたら、お譲りいたします。ただとは申しませんが……」
ひとり、ふたりと入ってきたのは、説法を聞きに来た街の人々だった。
娘は席を立つと、こう言い残した。
「見つけた相手は、決して断らないでください。」
それから、どれほど経っただろうか。
説法を終えたヒーモーは再び、最前列の椅子の端に座った相手と言葉を交わしていた。
「学者として、その見識も行いも、誰に恥じることもないストゥタ殿が、折り入ってご相談とは……」
げっそりと痩せた、目ばかりぎらついている小柄な中年の男が、恥ずかしげに告げる。
「聞いていただきたいのは、私の話ではございません……若い頃からその、尊敬申し上げているご婦人がおりまして、その、あの方が」
聖堂の端を眺めやった先の席には、品のいい老貴婦人が腰掛けていた。
どうぞこちらへ、とヒーモーはよく通る声で呼びかける。
痩せた身体をまっすぐに立てて歩いてきた老貴婦人に席を譲ったストゥタは、恭しく紹介した。
「この方が、エーデル侯爵夫人です」
ほとんど聖堂から離れることがないヒーモーも、名前くらいは知っていた。
かつては社交界の華と呼ばれ、独身を通している才女である。
初めまして、とだけ答えるヒーモーに、夫人もまた、恥ずかしげに用件を切り出した。
「私の姪に、よい相手を探しております」
ほう、と相槌を打って、玻璃の眼鏡をかけてみる。
その向こうには、虚ろな目を潤ませた若い令嬢の姿がある。
修行のために恋を犠牲にしてきたヒーモーにも分かった。
これは、恋に恋する乙女の目だった。
長い間、心の底で押し殺していた思いが、ついに血と肉を得て蠢きはじめる。
「それでは、私の知り合いを当たってみましょう」




