女詐欺師が古い革財布ひとつで強欲商人を慈善家に変える
裸一貫で興した店の2階で、豪商アヘヌスは、街の向こうに沈む夕日を眺めていた。
周りの家のほとんどは商家で、2階建てや3階建てが軒を連ねている。
その向こうの狭い空を、日は少しずつ、まっすぐに沈んでいた。
家路を急ぐ人が行き交う中、アヘヌスは、来し方、行く末に思いを巡らせていた。
「儲かりはじめてからこっち、日の出の勢いだった。だが、ワシも老いた。いずれ、この夕日のように沈み始めるだろう。だから、もう、何も……」
そこまでひとりつぶやいたとき、窓の下から陽気な歌声が聞こえてきた。
何も欲しくはないなんて嘘
何もないことが欲しいんだから
欲しいなら欲しいとおっしゃい
手に入らないことが幸せなんだから
手に糸の束の入った籠を提げた、裁縫の帰りと思しき娘だった。
年甲斐もないと思いながらも、アヘヌスは見下ろして声をかけた。
「いい声だね、お針子さん」
それほどでも、と微笑む顔は美しかった。
「歌のお礼に、ちょっと遅いお茶でもいかがですかな?」
喜んで、と娘は答える。
この娘さんを2階へ、下側の店へ階段越しに声をかける。
その歌の文句にも少しばかり心惹かれてのことだったが、金持ち爺さんが色気づいて、などと店の者に思われなかったかと後悔した。
店員の案内でやってきたお針子はソーメルシュカと名乗った。
むろん、魔法の衣で身なりを変えたリーヴである。
このお針子をテーブルの向こうに座らせると、アヘヌスは自分でお茶を淹れた。
カップを行儀よく持って口に運んだリーヴは、お茶の匂いと味わいをゆっくり楽しんだ後、微笑んで言った。
「災難でしたね、娘さんの結婚にとんだ横槍が入って」
それで大恥をかいた豪商は、照れ臭そうに頭を掻いた。
「娘も、何事もなかったかのように縁談を進めてくれまして」
これで一安心ですね、とリーヴがねぎらう。
アヘヌスは居心地悪そうに身体をすくめた。
「いや、もう、こりごりです。私に金があっての縁談ですから」
ご苦労なさったでしょうに、という思いやりの言葉をかけてやると、アヘヌスは自ら、来し方を語りはじめていた。
「貧しい家から塩問屋へ奉公に出されまして、そこで商いを覚えました。塩だけでなく、海から入ってくるものが高く売れるのに目をつけまして」
かかった、とリーヴは思った。
日が沈みかかっているのか、部屋の中がぼんやりとかすみ始めている。
そこでリーヴは、薄暮の向こうの老いた豪商に向かって居住まいを正す。
「では、もう、充分ではありませんか」
心の底を見透かされたかのように、アヘヌスは、さっと顔を強張らせた。
だが、すぐさま眉を垂らして、恥ずかしげに目を伏せる。
「いえいえ、金で買えないものがあることを思い知りました。あれであの若者が勝っていたら、私は金で娘の幸福な結婚を買おうとしてしくじったと、いい笑いものになったことでしょう」
「人からの評判が、そんなに気になりますか?」
不思議そうに尋ねてやる。
「娘のことを思えば、いつまでも強欲ジジイと言われるわけにはいきません」
それは、決して人前では口にできなかった弱みであっただろう。
アヘヌスは、こんなことをなぜ正直に話してしまうのか分からない、という顔をする。
だが、リーヴは敢えて、さらに心の奥底へと踏み込んだ。
「あなたの富に比べれば、たいしたことではありませんのに」
「それさえ叶えば、いくら払ってもいい」
次第に薄らいでいく夕暮れの光の中で、老いた豪商は胸の奥に秘めていた望みを露わにしていた。
それを、リーヴは軽い言葉でいなしてゆく。
「お守りを買うのとそう変わらないと思いますが」
「お守りでいい」
すがりつくような、思いつめた声だった。
いかにも気の毒そうに頷いて、リーヴが差し出したものがある。
「それでしたら、これを」
古い、革の財布だった。
再び商人の顔になったアヘヌスは、割れ物でも扱うかのような慎重さで、それを手に取ってあちこちから眺める。
やがて、重々しい声で告げた。
「年代物ですな……なかなかの骨董品だ。買いましょう」
では、とリーヴが口にしたのは王都の相場を調べた上での額である。
自分でも法外なものだとは思っていた。
だが、アヘヌスは2階の壁に手を当てると、隠し金庫から大きな宝石をいくつも取り出す。
「これから暗くなるというのに、そんな大金を持ち歩いては危ない。これを、相場を見ながらゆっくり売りなさい」
リーヴは宝石を受け取るそばから、服のあちこちにあるポケットへと隠してゆく。
やがて金庫が空になったところで、厳しい口調で念を押した。
「これだけは、お忘れなく。お金に換えられないものは、値段がつけられません」
お針子ソーメルシュカが去った後で、アヘヌスは、薄闇の忍び込んできた2階の部屋でつぶやいてみる。
「せめて、人から感謝されてみたい」
ささやかな願いだった。
成り上がるために、わき目も振らず働いて来たが、それで人を踏み台にしたこともある。
誰かのために、何かをしてきたことなどなかった。
娘のためにと結婚相手を探したときも、結局、満たそうとしたのは自分の気持ちだった。
「自分の得になることは、何一つするまい」
ため息混じりの独り言に応えるように、何の役に立ちそうにない、あの古い財布がぼんやりと光ったような気がした。
そこで、ふと思い立ったことがある。
王都の端のほうには、食うや食わずの毎日を送っている人がいる。
中心部になるほど軒と身分の高い、また裕福な者の家が集まっている。
だから、貧しい人たちの暮らしが見えないのだ。
アヘヌスは、その日の仕事を終えた階下の店員に向かって命じた。
「今から、鍋釜とパン、豆、麦、野菜を買えるだけ買って来い! 明日の朝から、王都の端をぐるりと回って炊き出しをする!」




