突然訪れた危機を巧みな話術で隠した王太子は、婚約者を押しとどめて王都への帰還を宣言する
やがて、ソーデルの領主は懐かしげにリーヴへ語りかけた。
「母上のカオ―ニス殿も非凡なお方であったが」
亡き母のことには、正直、触れてほしくなかった。
ため息をつく者もいる。
「優れた法律家でいらしたが、惜しい方を亡くした」
幼い頃だったので、あまり記憶にない。
どう切り返そうかと思ったところで、苦々しげな声が、どこかで応じてくれた。
「あの隣国ユルムスの侵攻さえなければ」
そこで領主が立ち上がって、恭しく一礼した。
「王太子様、どうぞ強く賢い君主となって我らをお守りください」
これが王都カフ―の宮殿なら、レイフは自信たっぷりに頷いてみせるところだ。
だが、レイフはうつむいたまま、身動き一つしなかった。
やはり、何かが違う。
婚約者の顔を、リーヴは覗き込む。
「何か、ありましたの?」
その何かを取り繕うかのように、レイフは突然、ぺらぺらと陽気にしゃべりだした。
「ご心配なく、この王太子レイフ、ユルムスはおろか、あの冒険者と称する人間どもも、ヒルヴィーオ王国にも、このトロール界にも迷い込んでくることはありません」
おお、という感動のため息と共に、あちこちから祝福の声が上がった。
「ヒルヴィーオ王国、万歳! 国王オヴェーラ7世、万歳! 王太子レイフの御代と王太子妃リーヴ様に、幸あれ!」
その声は口々に広がって、海辺の別荘を揺るがさんばかりに響き渡る。
大歓声をを片手で制したレイフは、悠々と宣言した。
「ぜひ私どもの結婚式にはご参列ください。次の治世も泰平をお約束いたします」
張りのある声だが、どこかに無理があるのをリーヴは感じていた。
その場が静まると、再び領主が、老いたりとはいえ牙の鋭く光る口を開いた。
「このような才知溢れる美女と、どのように知り合われたのか」
だが、そのときにはもう、王太子は伝令を伴って、広間から姿を消している。
真っ白な石を組み合わせた広間の丸天井には、どこから聞こえる海鳥の声だけが響いていた。
しばらくして、リーヴは照れ臭そうに口を開いた。
「成人した年に王都の園遊会で知り合い、その場で求婚されました」
いきなり始まった惚気に、老領主はきょとんを目を見開いている。
だが、やがて、懐かしげに微笑んだ。
「覚えていらっしゃいますか、幼い頃、陛下の誕生日の祝宴で、子どもたちは給仕をするしきたりがあった。その頃から、あなたは誰にでも呼び止められては大人顔負けの受け答えをなさっていた」
「たいへんに忙しかったことを覚えておりますわ」
座を和ませたリーヴはもっともらしく頷いてみせたが、あまりよく覚えていない。
今度は、広間の中の女性が思い出話を始める。
「陛下が令嬢たちにタペストリーの献上を命じられたことがあった。出来はともかく、あなたは真っ先にご提出になった」
「ええ、もったいなくも直々に、ご褒美の裁縫道具をいただきました。今でも大切に使っております」
父親の言いつけで大事に飾ってあるが、その分、刺繡のひとつも完成させてはいない。
他のテーブルから、若い貴族が口を挟んだ。
「成人のお披露目で陛下が最初に声をかけられたのも、あなただった」
「それは、座っていた順番にすぎませんわ」
実は、出会いのきっかけだった。
戻ってきたレイフが、話を聞いていたかのように、遠い目をした。
「子どもの頃から、北の辺境にそんな方がいるとは聞かされていましたが、まさか父上の目に留まるとは」
「その話はもう、終わりましたわ」
どっと笑いが起こったところで、レイフは一同を見渡すと、重々しく宣言した。
「急で申し訳ありませんが、王都カフーに帰らねばなりません」
リーヴは、慌ててその傍らに控えた。
「では、私も……」
その言葉を遮って、レイフは大真面目な顔で囁いた。
耳元で聞こえる声は、人前でのものとは打って変わって甘く、しっとりと頬を撫でた。
「僕だけでいい。後のことは、まず、伝令の報告を聞いてからだよ」




