トロールの姫が王太子と楽しむ婚前旅行の幸せな時間を伝令の知らせが掻き乱す
空の青さと海の紺碧が、高く昇った夏の太陽に輝く水平線で結ばれている。
それを遠く眺める石造りのテラスで、ひとりの姫君が舞っていた。
手にした剣が、夏の陽光に輝く波の光を照り返して煌めく。
高らかな歌声が、海風に乗ってどこまでも広がっていく。
我らが父母何処より来たれる
海原の彼方より剣と槍を携えて
我らの同胞何処へと栄える
地の果てへと犀にまたがりて
それは、先祖の武勇を語る叙事詩であった。
長い金色の髪が海風になびく。
胸元の大きく開いたドレスの、薄い生地を何重にも重ねたスカートが、軽いステップとターンに合わせて何度も閃いた。
だが、背筋をまっすぐ伸ばして剣を振るう姿は、まさに戦へと赴くようにも見える。
その凛とした美しさに、海辺のサロンに集った人々が喝采を贈った。
「さすがはリーヴ殿、我が国のいかなる歌劇の女優でも及びますまい」
称賛の第一声が、石造りの広間に響き渡る。
壁や柱に素朴な彫刻が施された、海を眺められる大きな別荘の、そのまた二階である。
その主として近隣を納めている領主のものだった。
「こちらからお願いして滞在させていただいておりますのに、過分なお褒めの言葉、ありがとうございます」
領主の小姓に剣を返したリーヴは、緑青色の顔を眩しくほころばせて答えた。
そこそこ満足な出来ではあったが、その謙遜に、初老の領主は恐れ多いという顔つきで首を振る。
「まずは王太子レイフ殿下とのご婚約、おめでとうございます」
ありがとうございます、と答えたリーヴは、一番前の席で剣舞を眺めていた銀髪の若者を見つめる。
小姓から返された剣を緑青色をした手で受け取ると、レイフは引き締まった口元に白い牙を光らせた。
「婚前旅行にはこのソーデルの地をぜひとせがまれまして、ご面倒をおかけしたかと」
領主は、とんでもない、と顔の前で手を振った。
「絶世の美女と呼ばれた方をお迎えできたのですから」
「いいえ、それはトロール界の話、人間界へ迷い込んだら何と言われますことやら」
緑青の肌を持つ者の掟に関わるきわどい冗談に、その場はどっと沸く。
さらに、よそから冷やかしの声が飛んだ。
「さすがは文武に優れたリッカウ辺境伯コーフタロ殿の娘御」
恐縮です、と腰をかがめてみせたところで、そこで、広間に足音もなくやってきた者があった。
長いマントをまとって、不格好までに大きな羽根飾りのついた鍔広の帽子をかぶった男である。
貴族たちだけの席に許しもなく入ってこられるのは、緊急の伝令しかいない。
「殿下……」
その場に倒れ伏したところを、王太子レイフは助け起こす。
銀色の髪がなびいた。
伝令の額に手をかざすと、目を覚まさせる。
そこで軽口を叩いた者がいたのは、かえって事の重大さを示していた。
「王太子にのみ国王から伝えられる魔法とお見受けいたします。まさか、この目で見られるとは」
「まだまだ修行中の身ですので」
伝令の渡した書簡を受け取ると、今度は別のところからぎこちないおどけ文句が聞こえた。
「いやはや……あ、いや、婚約者との旅行にまで、その、お仕事とは」
「王太子にとっては妻を迎えるのも公務。遠方にあれば書類の類が大急ぎで送られてくるのは、皆様も同じではありませんか」
その顔は笑っているが、目は笑っていない。
何かがおかしい。
さっきまでの微笑を顔から拭い去ったリーヴは、口元を引き締めて尋ねた。
「どうなさいましたの?」
それには答えず、レイフはすさまじい速さで、なめしたヤギの革に綴られた書簡を流し読みする。
宴席の場に、遠い波の音だけが聞こえてきた。




