元・最高判官の不幸な妹が元・王妃として世を去った後に残した魔法の衣を手に、婚約破棄されたトロール姫は身分を買い戻すために人間界へと旅立つ
しばらく後のことだった。
雲に閉ざされた真夜中の暗い岩山に、稲妻が閃く。
雷鳴と共に、山肌を打ち叩く凄まじい音が洞窟の闇に響き渡り、リーヴのつぶやきをかき消した。
「雨か……」
山の天気は変わりやすい。
さっきまでは満月の光を頼りに、地図に記された洞窟を探し出すことができていた。
明滅する稲光を頼りに革の肩掛け鞄を開けたリーヴは、トロール界と人間界の境目を示した地図を収めようとして、その手を止めた。
王太子レイフの贈り物を入れた鞄の底には、その他に、小さく畳んだ一着の衣がある。
掘立小屋を出るときに、半ば強引に渡されたものだった。
「前王妃コーハストラ様……トゥオーマリ様の妹の形見」
洞窟の中を照らしては消える閃光の中で、旅装のリーヴは鞄を抱えてうずくまった。
思い出すのは、獣脂の蝋燭に照らされた掘立小屋の中で、深いため息をついたテーブルの向こうのトゥオーマリだ。
リーヴを諭すのを諦めたらしく、椅子に座り直す。
「屋敷を出て、どこへ行きなさるおつもりですか?」
「身体一つあれば、何とでもなるのがトロールですわ」
その満面の作り笑顔は、一言で凍り付かされた。
「持参金を自分で稼ぐ、そうおっしゃいましたな」
「そのために、屋敷を売り払いました。元手はあります」
お甘い、とトゥオーマリは切り返す。
「リーヴ殿ほどの才覚があっても、いや、あればこそ、スヴェンはもう手を打っているでしょう。このヒルヴィーオ王国で、取り引きに応じる者はありますまい」
「ユルムスでの富を持ち帰れば?」
「交易のない敵国から帰ってくれば、王太子妃どころか、反逆者として処刑されます」
ムキになったリーヴはさらに無茶を言い出す。
「そのほかの国なら?」
「ご存じですか? その名をひとつでも」
冷たくはねつけられたリーヴは、ふとつぶやいた。
「ならば……人間界へ」
意外にあっさりと、トゥオーマリは答えた。
「行く方法は三つございます」
一つ目は、偶然によるものだった。
「極端に気持ちが高ぶったり、恐れに囚われたりして、知らぬ間に出てしまう場合でございます。私や、妹のように」
なぜ、と問うと、トゥオーマリは、神妙な顔で答えた。
「トロールとは本来、魔力を秘めた存在でございます。しかし、これを自由に解放できるのは、王家の血筋にある者のみ」
二つ目は、魔法を継承する王家の権威と関わってくる。
「王家の魔法陣や、その他の呪力……人間の世界との壁を破るには、これが必要です」
その呪力についての答えは、判決の言い渡しにも似ていた。
「偶然……あるいは人間によるもの。その場合、強い思いを持つ者のもとに現れることがあります」
それは、最高判官でありながら禁を冒した自らに対するものでもあっただろう。
三つ目は、その禁に関わるものであった。
一枚の地図を手渡して、トゥオーマリはリーヴを促した。
「ここに記された岩山の洞窟を通れば、人間界へ行くことができます」
あまりの簡単さに、どこで手に入れた地図化と聞くと、まさにその洞窟だという。
「王都を追われてお父上を頼り、庵を結ぶところを探していたときに、人間の骸骨が手にしておりました。おそらくは、冒険者と称する者たちでしょう」
夢を追う若者のように、トゥオーマリは熱っぽく語った。
「こんな言い伝えがございます。トロールの世界と人間の世界で、共に満月が同時に中天にかかるときだけ通れる洞窟があると」
信じがたい荒唐無稽さにリーヴが唖然としていると、トゥオーマリは蝋燭の火を吹き消した。
掘立小屋の扉を開け放つと、月の光が差し込んでくる。
「今から行けば、洞窟の奥にも満月の光が見えるかもしれません。時を逃せば、洞窟から出られなくなります」
そう言うなり、老いて骨ばった指で握らせたのは、掌に収まるくらいの布の塊だった。
「これは、妹コーハストラの形見です」
暗がりの中で、月の光に目を輝かせながら、トゥオーマリは告げた。
「どうぞ、お使いください……妹が思いがけず冒した禁を、自ら乗り越えようとなさるなら」
人間界への旅は、もはや、思い付きではない。
戸口から出ようとすると、後ろから声がかかる。
「開けば、ちょうどよい衣になります。人間界に着いたら、そのまま羽織ってください。きっと、リーヴ様を守ってくれることでしょう」
振り向くと、自らも再び禁を破ろうとしているかつての最高判官が、深々と頭を下げていた。
雷鳴も、洞窟の中に響き渡る雨音も、未だに止む気配はなかった。
稲妻の閃きの中で、自らに問いかける言葉もさえも聞こえはしない。
「このまま入って、出られなくなったらどうする? リーヴ」
白く照らし出された、大昔にトロールに殺されたと思しき人間の髑髏が見つめ返す。
「でも、帰ったところで、何も変わらないよ、リーヴ」
洞窟の中に、うずくまる影が映し出された。
「無くすものがないから、ここまで来られたんでしょ? リーヴ」
自分の声が聞こえて、はっと我に返った。
雨が止んだのだ。
差し込んでくる月の光は、洞窟の奥にまでは届かない。
だが、その果ての闇に小さく見えたものがあった。
満月だ。
向こうでは、岩山の陰に隠れかかっている。
考えている暇はない。
リーヴは鞄を引っ掴むと、洞窟の奥へと駆け出していた。




