トロールの姫は隠棲する元最高判事から王族の暗部を聞かされる
引退した最高判官の名は、トゥオーマリといった。
リッカウに戻った時に遠く見えた、山岳地帯の麓に庵を結んで暮らしている。
ヒルヴィーオ王国に身の置き所のないリーヴの行く先は、とりあえず、そこしかなかった。
辺境の、そのまた果てへと向かう荒野の中の道は、夏の日差しにしおれた草木の間に細々と続いているだけだった。
着のみ着のまま、リーヴは高らかに歌いながら歩く。
昇った日は沈むもの
宵越し金は持たぬもの
明日は明日の風が吹き
日はどこにでも照るものよ
日が暮れる頃には、閉じた板窓の隙間から灯の光が漏れる、古い掘立小屋へとたどり着いていた。
叩いた戸を開けたのは、背のひょろ高い老人だった。
「リーヴ殿?」
幼い姫君だった頃の面影が、土埃に汚れた女の旅装と重なるのには、それほどかからなかったらしい。
家庭教師を務めていた頃のように相好を崩しながら、トゥオーマリはリーヴを招き入れた。
何もありませんがと、手作りらしい素焼きのカップで出されたハーブ茶を飲みながら、リーヴはこれまでの経緯を語った。
最後に取りだしたのは、スヴェンとの契約書だった。
「現金の持ち合わせがないので、王都で引き換えると……そのときまで、預かっていただけないでしょうか」
白く変色した古いテーブルの向こうで、トゥオーマリは目を閉じて頷く。
「ご立派です。それでこそ、父上コーフタロ殿と母上カオ―ニス殿の娘」
子どもの頃のように褒められて、リーヴは照れ笑いをした。
だが、かつての最高判官は、刑を言い渡した後の被告を叱るかのように、穏やかな、しかし厳しい口調で告げる。
「そんな泣き言のために、わざわざやってきたのではございますまい……栄達への驕りで禁を破って追放された痴れ者のところへ」
居住まいを正したリーヴは、子どもの頃のような率直さで尋ねた。
「聞いたときから不思議だったんです。どうして、あんなことをなさったのか」
その返事は、いささか自嘲気味だった。
「よりによって、国王の先妻の葬儀の場で、人間界に出現するなんて失態を見せた……」
王宮内でも、口にするのは憚られる話題だった。
「前王妃コーハストラ……妹さんは、どんな方だったんですか?」
遠慮がちに尋ねると、法を司る者としての頂点を極めた老人は、その出自を訥々と語りはじめた。
「共に生まれ育ったのは、貧しい農民の家でした。ある飢饉の年、両親は森の中に消えました……食べるものと、わずかな金を残して」
リーヴは慌てて、話をなるべく明るいほうへとそらす。
「ずっと一緒に、助け合って暮らしたんですね?」
「いえ、妹とは別々の人買いに拾われましたので……私は山の木を切り出したり、何カ月も海に出て魚を取ったり、自力で稼ぎました。いつか世に出るために」
「あとは知ってます。名判官としてのお話は、父や母から聞きました」
トゥオーマリは目を伏せる。
その声は、関わってきた相手への憐みに満ちていた。
「人間界への迷い込みの案件ばかりでした。何かの弾みだったこともあれば、やむに已まれぬ事情もございました」
リーヴも我が身を思って、息を呑まずにはいられなかった。
「たとえば?」
目を固く閉じていたトゥオーマリは、やがて、重い口をためらいがちに開いた。
「召使の女性が、主の狼藉から逃れようとして」
「ひどい……」
怒りで震えたリーヴの唇は、次の一言で止まった。
「そのひとりが、我が妹、コーハストラでございました」
「じゃあ、陛下が、憐れみをかけた娘のひとりを王妃になさったというのは……」
そこで、トゥオーマリは哀しげに、また懐かしげに微笑んだ。
「妹を見初めたのは、王太子クニンガスだった頃ですが」
王宮内で避けられていた話が、次々につながっていく。
老いたトロールの昔語りは、いつしか、嗚咽に代わっていた。
「賛成した者は、誰も……ですから、王宮内でつらい思いもしたでしょう。若くして死んだのも、おそらく」
そこで、リーヴが心の中に秘めてきた謎が解けた。
「もしかして、わざと?」
トゥオーマリは、すっきりとした笑顔で頷いた。
「王宮内のことでは、私も裁けません。自分で自分が許せなかったのです。迷い込みの案件はいくつも経験しておりましたので、もしかしたらと思いました。そうでなくても、気持ちを吐き出せれば本望と」
だが、リーヴのもどかしい思いは収まらない。
「陛下は、分かってくださらなかったんですか?」
こんな辺境で聞き耳を立てている者などいるはずがないのに、かつての最高判官は用心深く声をひそめた。
「私と共に貧しい家に生まれた妹を苛め抜いて死なせたのは、王族たちです。だが、クニンガス……国王は、それを分かってはくれなかった。それを裁けなかった私に、最高判官の資格はございません。」
「レイフも同じこと。この国に、もはや正義はありません」
公にはできない、抑えても抑えても湧き上がってくる思いだった
そこに、トゥオーマリは冷や水を浴びせる。
「仕方がないことです。権謀術数と弱肉強食が、トロールの掟なのですから」




