【64話】平穏。新たな挑戦。
結論から言えば――
何も起きなかった。
アレシアのスマホを回収し、スマホの使用を禁止してから数日。
妙な噂が広がることもなければ、冒険者ギルドや貴族が踏み込んでくることもない。
俺は店の二階、簡素な机に肘をつき、小さく息を吐いた。
「……助かった」
本音だった。
便利すぎるものは、世界に歪みを生む。
今回は、その手前で止まったらしい。
机の上には、伏せられたスマホが一台。
闇の文字が刻まれた板は、今は静かだ。
「大事に至らず、何よりでございます」
向かいに座るセラが、穏やかに言う。
「正直、夜中に踏み込まれる覚悟はしてた」
「トウマ様は慎重すぎるほど慎重でいらっしゃいます」
階下から足音がして、リュカが上がってきた。
髪を軽く払って、手にした帳簿を机に置く。
「アルテラの売上報告。問題なし」
「グレイフォルドも?」
「ええ。物流も含めて、全部安定してる」
淡々とした口調。
だがその裏に、無理がないことが分かる。
俺はふと気づいた。
「……リュカ、最近走ってないな」
「ん?」
彼女は一瞬だけ目を瞬かせた。
「前は、街と街を行き来してたろ」
「ああ……そういえば」
以前は、情報の伝達はほとんどリュカ一人に頼っていた。
判断が早く、記憶力もいい。だから任せきりだった。
だが今は違う。
「スマホがあれば、情報はその場で共有できる」
俺が言うと、リュカは腰に手を当てて考え込む。
「つまり……私が伝達役をやる必要がなくなった、と」
「そうなるな」
一瞬、沈黙。
「……私はもう用済みってこと?」
「違う」
俺は首を振る。
「仕事を変えられるって話だ」
その言葉に、リュカがこちらを見る。
セラも、わずかに姿勢を正した。
「今までは、人が足りなかった」
「情報は遅れて」
「判断は俺に集まってた」
指を折りながら続ける。
「でも今は違う。情報は即時、判断は分散できる」
言葉にして、確信する。
「……新しい店、出せる」
リュカが少し驚いた顔をした。
「本気?」
「本気だ」
彼女は腕を組み、少しだけ考える。
「場所は?」
「候補はいくつかある。ここはもう安定してるから――」
俺は地図を広げた。
「次の店、リュカに任せたい」
「……私に?」
一拍。
「現場を見て、判断して、動ける。それができるのは、お前だ」
スマホがある今、
俺は後ろから支援できる。
前に立つのは、リュカ。
「……すごいプレッシャー。でもやる」
「ありがとう」
少しだけ、口角が上がる。
セラが一歩前に出て話す。
「こちらの店の運営は私とフィオナにお任せください」
「頼もしいな」
スマホを手に取る。
闇の刻印は相変わらずだが、もう気にならなかった。
(便利すぎる道具は、隠すべきだ)
それは変わらない。
だが――
(便利な道具を使って、何を広げるかは、俺たち次第だ)
静かな数日が終わり、
次の一手が、ゆっくりと動き始めていた。




