第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(9)
「……誰にも、あんたを渡さねぇよ」
街のざわめきの中、耳元へ熱く落とされたルカの誓い。
その青い瞳の底で揺らめく、剥き出しの執着と独占欲に、あやは小さく瞬きを繰り返した。
(……本当に、真っ直ぐな子)
危ういほど純粋で、痛々しいほど一途。
大人の女性としての余裕を保とうとしつつも、繋がれた右手から伝わるルカの男らしい熱のせいで、あやの胸の奥はトクンと落ち着かないリズムを刻んでいた。
あやはふっと悪戯っぽく微笑み、指先を絡めたまま、少し首を傾げた。
「頼もしいわね。でも、ルカ……そもそもあなたは、この街で何をしてる人なの?
どうして、あんな危険な断崖に一人で追い詰められていたのかしら」
「あ……」
あやの漆黒の瞳に見つめられ、ルカは息を呑んだ。
光を呑み込み、何者にも染まらない深淵の黒。
その底なしの瞳に覗き込まれると、嘘や強がりなどすべて暴かれてしまうような錯覚に陥る。
ルカの喉仏がごくりと動き、頬に微かな朱が差した。
「……俺は、冒険者だ。このヴェルダンを拠点に、魔獣の討伐や遺跡の調査で日銭を稼いでた」
ルカは視線を泳がせながらも、ぽつりぽつりと自らの境遇を語り始めた。
「俺は昔から、この風の魔力……空間を切り裂く力が気味悪がられて、ずっと一人だった。
この街のギルドでもソロでやってたんだけどよ。……数日前、ある依頼で大手の冒険者パーティに臨時の前衛として雇われたんだ。
だけど、そいつら……裏で『帝国』の末端貴族と繋がってやがった。
危険な魔獣の囮に俺を使おうとして……気付いて逃げた俺を、口封じのためにあの断崖まで追い詰めたんだよ」
淡々と語るルカの声の隙間に、底知れない孤独と人間不信の棘が滲んでいた。
「魔獣の群れに挟まれて、仲間だと思ってた奴らには後ろから刃を向けられて……。
もう、どうでもよくなったんだ。
誰にも必要とされないなら、ここで落ちて死んだっていいやって。
……でも、あやが引き止めてくれた」
ルカは立ち止まり、あやの手を両手で包み込むようにして胸元へ引き寄せた。
そのスカイブルーの瞳は、まるで運命の神託を捧げる信徒のように、濡れた熱を帯びている。
「あんたが俺の命を拾ったんだ。だから、俺の命は全部あんたのものだ。
これからは、あやの行くところならどこへだって行く。あんたの剣になって、盾になって、一生守る」
「ルカ……」
重すぎるほどの誓い。
けれど、裏切りに塗れてきた少年のその言葉に、一片の打算も嘘もないことを、あやの《万象読解》は痛いほど正確に読み取っていた。
「……ふふ、ありがとう。心強いわ。
でも、まずは現実的な問題を解決しないとね。
……実は私、さっきのタルト代どころか、今夜泊まる宿のお金すらないの」
あやが困ったように眉尻を下げて微笑むと、ルカは目を丸くし、それから「あっ」と声を漏らした。
肩の上でカカオのタルトを反芻していたフク子も、嘴をパチパチと鳴らして割り込んでくる。
「そうですわ、あやきち! 私は野宿など断固拒否しますからね!
フカフカの天蓋付きベッドと、夜食のハイカカオチョコがなければ羽毛の艶が失われてしまいますわ!」
「贅沢言わないの。……というわけで、私もこの世界で身分証を作って、ちゃんとお金を稼ぎたいのよ。
ルカ、私でも入れるギルドって、この街にあるかしら?」
「あるぜ! っていうか、あんたを野宿なんかさせるわけねぇだろ。ついて来いよ、あや」
ルカは嬉しそうに口元を綻ばせると、あやの手を引いて大通りを歩き出した。
◇
大通りの北側にそびえ立つ、白亜の巨石で組まれた重厚な大建築――『アルカニア万象探索ギルド』ヴェルダン支部。
木製の巨大な両開き扉を押し開けて足を踏み入れた瞬間、酒の匂い、鉄と革の擦れ合う音、そして荒くれ者たちの怒号と笑い声が混ざり合った熱気が、あやの肌を包んだ。
年中過ごしやすい快適な常温の室内。
けれど、一歩足を踏み入れたあやの姿を目にした途端、ギルド内の喧騒が潮が引くようにピタリと止まった。
ざわ……と、低く波打つような気配。
そこにいたのは、誰も見たことのない圧倒的な気品を放つ黒髪の美女だった。
きゅっと耳の高さで一つにまとめられた艶やかなお団子ヘア。
オフィスワーク時代からの習慣で手際よく丸められたその髪型は、すっきりと通った首筋と、白磁のように透き通る滑らかなうなじを無防備に晒している。
お団子の端からふわりとこぼれ落ちた漆黒の後れ毛が、耳元とうなじに影を落とし、大人の色香をこれ以上なく引き立てていた。
何者にも染まらない、深淵の漆黒の瞳。
164cmのスラリとした立ち姿と、ドレスの上からでも分かる引き締まったウエスト、しなやかな胸元の曲線美。
「おい……見ろよ、あの女……」
「貴族の令嬢か……? いや、それにしては気品が桁違いだぞ」
「すげぇ美人だ……あのうなじ、触ったらどんな感触なんだ……?」
屈強な冒険者たちの視線が、一斉にあやの身体――とりわけ露わになった白い首筋とうなじへと、下卑た熱を帯びて集中した。
その空気を察知した瞬間。
ルカの表情から少年らしい柔らかさが完全に消え失せ、底知れぬ氷のような殺気が噴き上がった。
「……チッ」
舌打ちの音と同時に、ルカの周囲の大気がピシリと凍りつくような異音を立てる。
ルカはあやの背後に回り込むと、まるで周囲の視線からあやのうなじを隠すように、百七十六センチの身体を密着させて立ちふさがった。
(……見んな。誰一人、あやに触れるな……!)
ルカの胸の奥で、黒々とした嫉妬と独占欲がドロドロと煮えたぎる。
同時に、すぐ目の前にあるあやの白く細いうなじから、ふわりと漂う白檀の甘い香りがルカの鼻腔をくすぐった。
触れたら折れてしまいそうなほど繊細で、吸い付くように滑らかな首筋。
すぐ後ろにいるだけで、ルカ自身の心臓が早鐘を打ち、理性が焼き切れそうになる。
護らなければならない。誰の視線にも晒したくない。
けれど同時に、今すぐこのうなじに自らの唇を押し当てて、自分だけの印をつけてしまいたい――そんな狂おしい衝動が、ルカの指先を震わせていた。
ルカは荒れそうになる呼吸を必死に抑え込み、射殺さんばかりの冷たい視線で周囲の荒くれ者たちを睨みつけた。
空間を切り裂く微細な風の刃が足元でパチパチと音を立てる。
ただならぬ殺気に呑まれ、冒険者たちが息を呑んで後退りした。
「……おい、あや。受付はあっちだ」
ルカはあやの肩を抱き寄せるようにして、中央の大きな受付カウンターへと促した。
あやは背後の不穏な空気には気づきつつも、大人の落ち着きを崩さず、カウンターの女性受付嬢の前へと進み出た。
「い、いらっしゃいませ……! ギルドへのご用件でしょうか?」
受付嬢は、あやの神々しいまでの美貌に圧倒され、目を白黒させながら頭を下げた。
「こんにちは。ギルドへ登録をお願いしたくて」
「と、登録ですね! かしこまりました!
当ギルドでは、冒険者としての活動資格を得るために、まず身元確認と『魔力・適性測定』を行っていただきます」
受付嬢が手際よく説明を始める。
あやが耳を傾けていると、隣に並んだルカが、そっと補足を挟んだ。
「あや、この世界の冒険者には『ランク制度』があるんだ。
下から順に『F・E・D・C・B・A・S』の七段階。
基本はみんなFランクから泥臭く依頼をこなして昇格していくんだが……最初の水晶測定で突出した魔力や特異な能力が認められた場合、いきなり上のランクから始まることもある」
「へぇ……ルカは何ランクなの?」
「俺は……一応、『Cランク』だ。まあ、これでも二十歳そこそこじゃ早い方なんだけどな」
少し自慢げに、けれど照れくさそうにルカが笑う。
二十歳でCランクというのは、常人なら十数年かけて到達するレベルの実力者だ。ルカが命を狙われたのも、その突出した才覚ゆえだった。
「でもな、あや。頂点である『Sランク』だけは別格だ」
ルカの声が、真剣なトーンへと落ちる。
「大陸全土で、Sランクはたったの『二人』しかいない。
世界最強の武力で大陸を蹂躙する覇王、帝国皇帝レオンハルト。
そして、神聖不可侵の奇跡を操る絶対の聖者、教皇ヴァレンティン。
……あいつらは人間じゃねぇ。その下の『Aランク』ですら、大陸全体で十人いるかいないかの生ける伝説だ。
だから、あやも焦らずに、まずはDかEあたりを目指せば――」
「それではお嬢さん、こちらの『星霊の測定水晶』に両手をかざしてください」
受付嬢が、カウンターの上に直径三十センチほどの豪奢な台座付き水晶を設置した。
深海のように澄んだ青い光を湛えたその水晶は、触れた者の魂の器、魔力属性、そして秘められた天恵を映し出すという。
「手を置くだけでいいのね?」
「はい、深呼吸をして、リラックスして触れてくださいね」
あやは一度、深く息を吸い込んだ。
そして、白くしなやかな両手を伸ばし、青い水晶の表面へとそっと重ねた。
――その刹那だった。
パキィィィンッッ――!!
耳を劈くような、澄み渡る破砕音がギルドホール全体に響き渡った。
水晶が光ったのではない。
あやの指先が触れた瞬間、青く輝いていた水晶の内部に、底なしの「闇」が奔流のように流れ込んだのだ。
あらゆる光を呑み込み、虹色の屈折すら許さない、純度百パーセントの【漆黒】。
何者にも染まらない、絶対的な虚無と全受容の色。
さらに――ゴゴゴゴゴ……と、ギルドの床と壁が地鳴りのように激しく震え始めた。
「なっ……なんだこれ!? 地震か!?」
「おい見ろ、水晶が……!?」
ざわめき叫ぶ冒険者たち。
あやの手の下で、漆黒に染まった水晶の奥底から、無数の金色の幾何学紋様――二十二枚のアルカナの図柄が、天体のように回転しながら爆発的な燐光を放ち始めたのだ。
キィィィィィィン――!!
目も眩むような黄金の閃光。
そして、測定水晶の天頂部に浮かび上がった魔力測定の数式が、狂ったように回転した末に――。
『測定限界――魂魄深度:測定不能』
『固有神能:――【万象読解】』
『神聖属性:――【原初のアルカナ(規格外)】』
古代語で刻まれた文字列が、空間にホログラムのように燃え上がり、水晶の表面にピシリと亀裂が入った。
伝説の神話の時代にしか記録のない、神の領域の文字列。
「……う、嘘……でしょ……?」
受付嬢の手から書類がハラハラと滑り落ち、床に散らばった。
腰を抜かした彼女は、震える指先であやを指差したまま、声すら出せない。
先ほどまで下卑た視線を送っていた屈強な荒くれ者たちも、その場に縫い付けられたように青ざめ、息をすることすら忘れて硬直していた。
ギルド全体を支配する、針が落ちても聞こえるほどの完全な静寂。
その中心で、あやのすぐ隣にいたルカだけが、信じられないものを見るように目を見開いていた。
スカイブルーの瞳が、恐怖でも畏怖でもない、激しい動揺と焦燥に打ち震えている。
(……測定不能……? 伝説の神能……!?
嘘だろ……あや、あんたは……一体……ッ!?)
世界の均衡を根底から覆す「規格外の特異点」。
ルカが予感していた最悪の危惧――この唯一無二の女性を、帝国の覇王や教皇庁の怪物が決して見逃すはずがないという現実が、いま冷酷に幕を開けようとしていた。




