第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(10)
「……おいおいルカ坊、いつの間にそんな極上のいい女を連れ込んで、白昼堂々といちゃついてやがるんだ?」
張り詰めたギルドホールの空気を、低く艶やかな笑い声が軽やかに切り裂いた。
二階の回廊から、革張りの階段を軋ませてゆっくりと降りてくる一人の男。
年の頃は四十代の半ば――だが、その鍛え上げられた長身と肌の瑞々しさは、どう見ても三十代前半にしか見えない。
百八十四センチの均整の取れた体躯に、上質なチャコールグレーのベストをラフに着崩し、腕まくりした白シャツの袖口から太い手首と男らしい筋骨が覗いている。
無造作にかき上げられたアッシュブラウンの長めの前髪、左耳に揺れる銀のリングピアス、そして整えられた薄い無精髭。
くゆらせる細巻きの煙草から、クローブのビターで甘い香りがふわりと漂う。
『アルカニア万象探索ギルド』ヴェルダン支部長――ウォルター・アシュフォード。
街中の酒場の女給から貴族の未亡人まで、甘い言葉で骨抜きにする「街一番の放蕩モテ男」として知られる男。
だがその正体は、道化を演じて世界を俯瞰し、街の暗部を握る大陸屈指の知性――そして、大陸に十人しか存在しない生ける伝説、『Aランク冒険者』の席位を隠し持つ本物の怪物だった。
「なっ……! か、からかうなウォルターのオッサン! いちゃついてなんざねぇよ!」
ルカはあやを背中に庇い隠したまま、カッと耳の付け根まで真っ赤にして怒鳴り返した。
氷のように尖らせていた殺気が、途端に年相応の少年の照れ臭さへと反転する。
幼少期、危険な空間魔術を気味悪がられて孤立していたルカを拾い、生きる術を教え込んだ親父代わりの男。
ルカにとって、この飄々としたイケおじだけは、唯一頭の上がらない保護者であり、心を許せる絶対の味方だった。
「へぇ、いちゃついてないってツラじゃねぇがな。……まあいい。嬢ちゃん、うちの特注水晶を派手にぶち壊してくれたな」
ウォルターは煙草の紫煙をふっと吐き出し、あやの前で立ち止まった。
そのとろけるように甘い琥珀色の瞳があやを捉えた瞬間、猛禽のように微かに収縮する。
(……おいおい、マジかよ……)
ウォルターの背筋に、冷たい歓喜の悪寒が走った。
耳の高さで手際よくまとめられたお団子ヘアから、無防備に晒された白磁のように滑らかなうなじ。
漆黒の後れ毛が落とす妖艶な影、そして光を呑み込み何者にも染まらない深淵の黒い瞳。
ただの美女ではない。
歴戦のAランクであるウォルターの直感が、この女性は世界の理そのものを上書きしかねない「規格外の特異点」だと即座に看破していた。
「申し訳ありません、弁償なら……」
「いや、いいさ。あのポンコツ水晶じゃ、あんたの魂の器を量りきれなかっただけだ。……ルカ、嬢ちゃん。ついて来い。ここでは話せねぇ」
ウォルターは片目を悪戯っぽく細めると、ギルド最奥の特別執務室へと二人を手招きした。
◇
重厚な防音扉が閉ざされ、執務室の中に静寂が降りる。
部屋の中央にはアンティーク調の革張りソファが置かれ、ウォルターが自ら淹れた濃厚な紅茶と、香ばしい焼き菓子がテーブルに並べられた。
「まあ! この芳醇な苦味……最高級のカカオ豆で作られたショコラですわ!」
フク子が真っ先にテーブルへ飛び移り、嘴で菓子を突いて上機嫌に喉を鳴らす。
「ふふ、お行儀悪くしちゃダメよ、フク子」
あやが苦笑しながら優しく窘め、ソファへと腰を下ろした。
その隣に、ルカがまるで誰にも隙を与えないと言わんばかりに、ぴったりと肩を密着させて座り込む。
太腿が触れ合うほどの近さ。ルカの男らしい体温と、かすかな緊張が伝わってくる。
「さて、本題に入ろうか」
ウォルターは対面のデスクに腰掛け、煙草をもみ消すと、真剣な眼差しをルカへ向けた。
「……ルカ坊、お前をハメた連中の件だ」
「……っ、オッサン、なんでそれを」
ルカがスカイブルーの瞳を見開いた。
断崖から生還し、ギルドに駆け込んだばかりのルカは、まだ何一つ状況を報告していなかったのだ。
ウォルターは紫煙の残りを細く吐き出し、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「さっき、お前と臨時で組んでたパーティの連中が抜け抜けと戻ってきてな。『ルカが魔獣に襲われて崖から落ちて死にました』と白々しく涙ながらに殉職報告書を出しに来やがったところだ。……だがな、俺がお前の実力を知らねぇとでも思ったか? あんな雑魚どもの前で、お前が間抜けに足を滑らせて死ぬわけがねぇ」
ウォルターの琥珀色の瞳に、冷徹な光が宿る。
「報告を受けた瞬間にあいつらの身辺を速攻で洗わせたら、昨晩、闇ギルドで『魔力麻痺の遅効性毒』を仕入れてやがった。……そして、あいつらに大金を掴ませてお前を消そうとした黒幕は、レグリア帝国の末端貴族――クローデル子爵だ」
「……ッ、あいつか……!」
ルカの全身から、ギリギリと軋むような殺気が立ち上る。
あやはその震える手に、自らの手をそっと重ねた。
大人の女性の柔らかく温かい体温に触れ、ルカはハッと息を呑み、わずかに呼吸を落ち着かせる。
「クローデル子爵は今、このヴェルダンの裏社会で禁忌の薬物流通と、身寄りのない冒険者や孤児の『違法な人身売買』を牛耳っている。
……帝国は強大だ。末端貴族とはいえ、確固たる証拠がなければ手出しはできねぇ。
だが、絶好のチャンスが訪れた。……三日後、クローデル子爵が帝国内の領主館で、大規模な『慈善夜会』を開催する」
ウォルターは羊皮紙の封筒を取り出し、テーブルへ滑らせた。
「この任務は、表と裏の二つの顔で動く。
――【表の顔】は、夜会に招かれた『新興貴族の令嬢』と、その若き『護衛騎士』。
あやさん、あんたのその並外れた美貌と気品なら、どんな貴族も一目で見惚れて疑いを持たねぇ。会場の視線を釘付けにし、社交の場で時間を稼いでもらう」
ウォルターはそこでニヤリと不敵に笑い、ルカを横目でからかうように見た。
「――そして【裏の顔】。
夜会が最高潮に達した隙に、ルカ、お前があやさんをエスコートするフリをして館の深部へ潜入し、子爵の地下金庫から『裏帳簿』と『取引の証拠』を盗み出す。
あやさんの『万象読解』があれば、どんな複雑な暗号や結界も一瞬で読み解けるはずだ」
表では華やかなドレスを纏い、美貌で貴族たちを翻弄する令嬢。
裏では冷徹に証拠を奪取する潜入工作。
光と影が交錯する、完璧な任務設計。
「……待てよ、オッサン」
ルカが低く唸るような声で異議を唱えた。
「その夜会……まさか、レオンハルトの息がかかった連中も来るんじゃねぇだろうな?」
「……勘がいいな、ルカ坊」
ウォルターの笑みがスッと消え、鋭い光が宿る。
「帝国の覇王、皇帝レオンハルト本人が来るかは半々だが……帝国の親衛隊や重鎮たちが出席するのは確実だ。
もししくじれば、帝国の牢獄行き。……だが、成功すればクローデル子爵を失脚させ、ルカ、お前の汚名も完全に雪ぐことができる。
何より……あやさんには、ギルドから特大の報奨金と、今後の最高ランクの安全保障を約束しよう」
室内を支配する重い沈黙。
あやは膝の上で重ねていた手を見つめた。
ただの社畜OLだった自分が、帝国の陰謀渦巻く夜会へ潜入する――普通なら足がすくむような危険な任務。
けれど、隣で必死に自分を庇い、過去の傷に震えているルカの横顔を見た瞬間、あやの漆黒の瞳に静かな決意が宿った。
(ルカを陥れた連中を、野放しにはできない……)
あやは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「分かりました。その依頼、お引き受けします」
「……あや!?」
ルカが驚愕してあやの顔を覗き込む。
あやはそんな年下の少年に、慈愛に満ちた優しい眼差しを返した。
「大丈夫よ、ルカ。……あなたが、私を守ってくれるんでしょう?」
その無防備で全幅の信頼を寄せた笑顔に、ルカの心臓がドクンと激しく跳ね上がった。
カッと顔が白熱し、喉が焼けるように熱くなる。
同時に、胸の奥底で眠る【疼き】が、あやの言葉に呼応するかのように、ドクドクと力強く脈打った。
(……ああ、クソッ……!)
ルカはあやの手を、強く握り直した。
逃がさない。死んでも離さない。
この唯一無二の女性を、帝国のどんな強者からも、世界のどんな悪意からも、必ず自分の手で守り抜いてみせる。
「……当たり前だ。俺の命に代えても、あやには指一本触れさせねぇよ」
少年のスカイブルーの瞳に宿る、純粋で獰猛なまでの誓い。
帝国の華やかな夜会、そして背後に潜む冷酷な覇王の影へ向けて、二人の運命の歯車が静かに噛み合い始めていた。




