第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(11)
「よし、商談成立だな。……危険な任務を引き受けてくれた礼だ。今夜の宿は、俺の奢りでヴェルダン最高の宿を用意してやる」
ウォルターは満足げに煙草の煙をくゆらせると、デスクの引き出しから真鍮の鍵を取り出し、テーブルの上へと滑らせた。
「中央広場に面した迎賓宿『金獅子亭』の最上階スイートルームだ。ふわふわの羽毛ベッドに、湯水のように使える魔導温水風呂もある。……嬢ちゃん、今夜はそこでゆっくり手足を伸ばして、旅の疲れを落としてくれ」
「まあ……! ギルド長、お心遣いありがとうございます」
あやがほっと胸を撫で下ろして微笑むと、隣で警戒を怠らなかったルカが、すかさず身を乗り出した。
「おいオッサン、部屋は二部屋取ってんだろうな!? あやと俺の部屋を繋ぐ扉はあるのか!? 今夜は俺があやの扉の前で不寝番をするからな!」
「馬鹿言え、年頃のうら若き淑女の部屋の前に、血気盛んな番犬を一晩中侍らせる宿主がどこにいる。コネクティングルームで隣同士にしてあるから安心しろ。……まったく、独占欲が服着て歩いてやがるぜ」
ウォルターが呆れたように肩を竦めて笑うと、ルカは「ぐっ……」と喉を詰まらせ、またしても耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。
その様子をテーブルの上から見ていたフク子が、満足げに羽を膨らませる。
「素晴らしい計らいですわ、支部長! 魔導温水風呂に天蓋ベッド……! これで私の高貴な羽毛も潤いを取り戻せますわ!」
「ハハ、鳥の客人は想定外だが、ルームサービスに最高級のカカオ菓子も付けさせておこう。……さて、明日の段取りだが」
ウォルターの琥珀色の瞳が、実務的な鋭さを帯びる。
「明朝、夜明けと同時にギルド特注の四頭立て快速馬車を出す。ヴェルダンから国境を越え、帝国のクローデル子爵領までは丸二日――三日目の朝に現地へ到着する強行軍だ。……夜会は、その日の夜に執り行われる」
「三日目の朝に着いて、その夜にもう本番……かなり慌ただしいスケジュールですね」
あやが少し緊張した面持ちで尋ねると、ウォルターは不敵に口元を吊り上げた。
「心配すんな。帝国領の端、クローデル領の目と鼻の先にある丘陵地に、俺が個人的に所有している『別邸』がある。到着後はそこで休息を取りつつ、夜会の準備を一気に整えさせる手筈だ。
……あそこには、俺の古くからの馴染みである老家令と、帝都の流行にも精通した腕利きの専属針子たちが控えている。
新興貴族『ローゼンバーグ男爵令嬢』としての身分証、馬車、そして社交界の視線を独占する最高級のドレスまで……半日で完璧に仕立て上げてみせるさ」
◇
翌朝、夜明けの薄青い光が街を包む中、二人はウォルターに見送られてヴェルダンを出立した。
「あやきち! わたくしは一足先に子爵邸へ乗り込み、上空から地下金庫への侵入経路と警備兵の配置を丸裸にして差し上げますわ! ま、お二人はせいぜい会場で優雅に目立っていらっしゃいな。地下へ潜入する手筈が整った頃に、このわたくしが華麗に合流してあげますことよ!」
「ありがとう、フク子。気をつけてね」
あやの言葉に優雅に頷くと、フク子は音もなく飛び立ち、太陽が地上から顔を出しはじめた空へと溶け込むように姿を消した。
どれくらい進んだのだろう。街道をひた走る四頭立ての快速馬車。
車窓を流れる雄大な山並みと平原、そして青空に静かに寄り添う二つの白磁の満月。
揺れる車内の中、ルカは片時もあやの隣を離れず、窓外への警戒を怠らなかった。
時折、車体の揺れで肩や太腿が触れ合うたび、ルカの呼吸が微かに乱れる。
トクン、トクン……と、少年の胸の奥底で、あの未知の熱い【疼き】が絶え間なく脈動していた。
(……あやが、すぐ隣にいる……)
漂う甘い白檀の香り。
華奢な肩、風に揺れる漆黒の後れ毛。
触れたい、この腕の中に閉じ込めたいという獰猛な独占欲と、胸の奥で胎動する規格外の魔力の熱。
ルカはその二つの激しい衝動に身を焦がしながら、二日間の旅路を耐え抜いた。
◇
そして――三日目の朝。
馬車は帝国南西部の鬱蒼とした針葉樹林を抜け、なだらかな丘の上に佇む瀟洒な白亜の館――ウォルターの私有別邸へと滑り込んだ。
「お待ちしておりました、あや様、ルカ様。……旦那様より、万事滞りなく整えるよう仰せつかっております」
馬車の扉を開けたのは、背筋を定規のように伸ばした銀髪の老家令、ジェラルドだった。
完璧な所作で頭を垂れる家令に続き、黒の詰襟に純白のエプロンを纏った侍女たち、そしてメジャーを手にした専属の針子長が一斉に深々とカーテシーを捧げる。
そこからの時間は、まさに嵐のような慌ただしさだった。
あやは別邸最上階の豪奢な衣装部屋へと案内され、湯浴みを済ませた後、帝国最高峰の絹と宝石に囲まれて完璧な貴族令嬢へと仕立て上げられていった。
長年、都内のオフィスで「地味で目立たないオフィスカジュアル」ばかりを着てきたあやにとって、それはまるで別世界の御伽噺のような時間だった。
そして、夕刻。
薄暮の紫紺の空が広がり、子爵邸の夜会へと出発する刻限が訪れた。
一階のエントランスホール。
重厚な大理石の階段の下で、ルカは落ち着かない様子で革靴の爪先を鳴らしていた。
その姿は、いつもの粗野な冒険者の少年とは見違えるほどに変貌していた。
深い濃紺の上質なウールに、銀の刺繍が施された護衛騎士の正装。
鍛え上げられた広い肩幅と細い腰回りが凛々しく引き立ち、腰には儀礼用の細身の銀剣が佩かれている。
白銀の髪は手櫛で整えられ、濡れたようなスカイブルーの瞳が、青年の持つ精悍な色気を際立たせていた。
「ルカ様、あまりそわそわなさいますな。騎士の威厳が損なわれますぞ」
ジェラルドが静かに窘める。
「うっせぇよ……。こんな窮屈な服、慣れてねぇんだ。……それより、あやはまだなのか?」
ルカが苛立ちを紛らわすように言いかけた、その時だった。
カツン……と、大理石の階段の上から、控えめで上品なヒールの音が響いた。
「お待たせいたしました、ルカ様。……ローゼンバーグ男爵令嬢、お披露目でございます」
侍女頭の恭しい声とともに、階段の踊り場へと姿を現したその人を仰ぎ見た瞬間――ルカの呼吸が、完全に止まった。
「……っ!?」
そこに立っていたのは、息を呑むほどに艶やかで、神々しいまでの気品を放つ黒髪の貴婦人だった。
身に纏うのは、夜の帳と月光を織り込んだような、深い真夜中色のシルクサテンのローブ・デコルテ。
余計な装飾を削ぎ落としたタイトなマーメイドラインのドレスは、あやのしなやかで豊かな胸元と、驚くほど引き締まった大人のウエストラインを、これ以上なく美しく描き出している。
大胆に開かれた胸元――白磁のように透き通る柔らかなデコルテが、シャンデリアの光を浴びて淡く発光していた。
そして、何よりも――。
長年の習慣であった耳の高さのお団子は、夜会用に繊細な三つ編みを交えて優美に結い上げられ、普段以上にそのすっきりと通った首筋と【白く滑らかなうなじ】を、無防備なまでに露わに晒していた。
お団子の端からふわりと首筋へこぼれ落ちる、漆黒の後れ毛。
何者にも染まらない深淵の黒い瞳と、ほんのりと紅を差した艶やかな唇。
「ルカ……? その、どうかしら。……似合っているかしら?
普段こんな華やかなドレスなんて着たことがないから……少し、落ち着かなくて」
あやが気恥ずかしそうに頬を染め、華奢な手でドレスの裾を少し持ち上げながら、一段ずつ階段を降りてくる。
大人の女性の恥じらいと、圧倒的な美貌。
ルカの全身の血が、一瞬で沸騰した。
ドクンッッ――!!
心臓が、肋骨を突き破るような衝撃とともに激しく跳ね上がった。
胸の奥底で渦巻く【疼き】が、まるで灼熱の炎のように暴れ狂い、全身の血管を焼き尽くしそうになる。
(……綺麗だ……。息が、止まりそうだ……)
ルカは喉仏をごくりと上下させた。
視界のすべてがあやの姿で埋め尽くされ、他の何も見えない。
露わになった瑞々しいデコルテ。
動くたびに甘く揺れる、白く滑らかなうなじ。
今すぐ駆け寄り、その細い腰を抱き寄せて、誰の視線にも触れさせないように隠してしまいたい。
この美しい人を、自分だけのものにしてしまいたい――狂おしいほどの独占欲が、ルカのスカイブルーの瞳を暗く、深く濁らせていく。
「……ルカ?」
階段を降り切ったあやが、立ち尽くすルカの顔を不思議そうに覗き込んだ。
至近距離から漂う、甘い白檀と高貴な香油の香り。
ルカは震えそうになる息を無理やりに呑み込み、あやの前で片膝をついた。
そして、差し伸べられたあやの白い手を、両手で壊れ物を扱うように包み込む。
その掌は熱く、微かに震えていた。
「……似合ってるなんてもんじゃねぇよ」
掠れた、低く甘いハスキーボイス。
ルカは見上げる姿勢のまま、あやの漆黒の瞳を、熱情に灼かれた青い双眸で射抜くように見つめた。
「息ができなくなるくらい、綺麗だ。……正直、今すぐ部屋に連れ戻して鍵をかけちまいたい」
「え……?」
あやが驚いて目を瞬かせると、ルカはあやの手の甲へ、熱い吐息とともに誓うように唇を落とした。
「あの会場にいる男どもが、あんたのその首筋や肌をジロジロ見るのかと思うと……今から全員、空間ごと切り刻んでやりたくなる。
……あや、絶対に俺の傍を離れるなよ。
あんたに触れようとする奴は、貴族だろうが帝国の人間だろうが……俺が絶対に許さねぇから」
すがるような、そして獰猛に独占を告げる騎士の誓い。
ルカは立ち上がると、あやの細い腰にそっと逞しい手を添え、優しくエスコートした。
外では、クローデル子爵の紋章が刻まれた夜会行きの豪奢な馬車が、静かに扉を開けて待機している。
二大勢力の一角、冷徹なる覇王レオンハルトの影が差す帝国の夜会へ向けて、二人は静かにその第一歩を踏み出した。




