第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(12)
ガタゴトと、夜の静寂を切り裂いて走る子爵家の紋章入り快速馬車。
ビロード張りの車内には魔導ランプの琥珀色の光が揺らめき、息が詰まるほど濃密な沈黙が満ちていた。
向かいの座席に腰掛けるルカの姿から、あやはどうしても目を離すことができずにいた。
(……本当に、あの子なの……?)
普段の薄汚れた外套と擦り切れた革鎧を脱ぎ捨てたルカは、見違えるほどに変貌を遂げていた。
深い濃紺の騎士服に、襟元と袖口を飾る繊細な銀の刺繍。
鍛え上げられた広い肩幅としなやかな逆三角形の体躯が、仕立ての良い布地の上からでもありありと浮かび上がっている。
手櫛で綺麗に整えられた白銀の髪、スッと通った高い鼻梁、濡れたように澄んだスカイブルーの瞳――。
腰に儀礼用の銀剣を佩いたその佇まいは、荒くれ者の冒険者などでは決してない。
息を呑むほどに冷徹で、近づく者を平伏させるような【若き貴公子】そのものだった。
二十歳の青年が放つ、抗いようのない端麗な色香。
胸元の深いデコルテを無意識に手で隠したくなるほどの破壊力に、あやが居心地悪そうに身を縮めた、その時だった。
ガタンッ――!
車輪が石畳の溝に足を取られ、車体が大きく横に軋んだ。
「きゃっ……」
遠心力で身体が投げ出され、座席から滑り落ちかけたその刹那。
向かいから滑り込んできた長い影が、あやの細い腰を力強く、けれど羽根のように柔らかく抱き留めた。
「――お怪我はありませんか、我が麗しき主」
「……えっ?」
低く艶やかに、鼓膜を甘く痺れさせる極上のバリトン。
驚いて見上げた至近距離に、ルカの彫刻のように端正な美貌があった。
信じられないのは、その姿勢の完璧さだった。
激しく揺れる車内であるにもかかわらず、ルカの背筋は定規を当てたように美しく伸び、あやの腰を支える手の位置、ドレスの裾を踏まない足の捌き方まで、寸分の隙もない。
帝国の高位貴族すら足元にも及ばない、完璧なロイヤル・エスコート。
「貴女の望むままに、この命を捧げましょう」
唇にわずかな笑みをたたえ、洗練された所作であやを支え上げるルカ。
その甘く完成された所作に、あやの心臓はドキンと跳ね上がった。
「る、ルカ……? その話し方……それに、その完璧なマナーは一体……」
あやが目を丸くして問いかけると、ルカはハッと我に返ったように青い瞳を揺らした。
冷徹な貴公子の仮面が一瞬で剥がれ落ち、耳の先まで真っ赤にしていつもの少年の顔へと戻る。
「……あ、わりぃ! 身体に染み付いてて、無意識に出ちまった……」
ルカはあやをそっと座席へと落ち着かせると、向かいではなく、あやのすぐ隣へと腰を下ろした。
触れ合う肩と太腿。伝わってくる男らしい熱。
ルカは自嘲するように細い唇を歪め、自らの骨張った掌を見つめた。
「驚いたろ。……俺、夜会の作法も、貴族どもの反吐が出るような社交辞令も、全部完璧に叩き込まれてんだよ。……十四歳まで、牢獄みたいな場所でな」
「十四歳まで……?」
あやが静かに息を呑むと、ルカは遠い過去を手繰るように、重い口を開いた。
「俺は……この街、中立独立国家『ヴェルダン王国』の現国王の血を引く、第三王子だ」
車内に、静かな衝撃が落ちた。
あやの膝の上で丸くなっていたフク子も、紫水晶の瞳を見開いて微かに羽を震わせる。
「……信じられねぇだろ。万年C級の厄介者が、王族だったなんてよ」
ルカの声の底に、凍てつくような孤独と暗い怒りが滲み出した。
「俺のこの空間を切り裂く力と、銀髪碧眼の容姿は、生まれた時から王宮で忌み嫌われてた。
大国に挟まれた中立国ヴェルダンにとって、誰の支配も受け付けず、軍隊すら切り裂く俺の魔力は『他国への刺激になる危険物』でしかなかったんだ。
王家は俺を『災いをもたらす忌み子』として公式記録から存在を抹消した。国民も、上流貴族すら俺の顔を知らねぇ。王城の最深部にある『離宮』に隔離されて、光の入らない部屋で一生を過ごすはずだった」
「幽閉……そんな幼い頃から……?」
あやの胸が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
どれほどの暗闇の中で、この少年は一人、心を殺して生きてきたのだろう。
「ああ。道具としていつか他国へ差し出すか、一生飼い殺しにするためだけに、家庭教師から帝王学と王族の礼法だけを機械みたいに叩き込まれた。
兄貴たちも、俺を弟じゃなく『気味の悪い化け物』として見てたよ。
……十四の時、もう限界だった。部屋の結界を空間ごと切り裂いて、城を抜け出したんだ」
ルカはスカイブルーの瞳を伏せ、自嘲気味に息を吐いた。
「城を出て、路地裏で行き倒れて死にそうになってた俺を拾ってくれたのが……ウォルターのオッサンだった。
オッサンは俺の素性を全部知った上で、王家の追っ手から俺を匿ってくれたんだ。
あいつが俺を『万年C級』に据え置いてたのも……俺が目立ちすぎてA級に昇格すりゃ、王家や帝国の耳に入って身元が割れちまうからだった。……オッサンなりに、俺を守ってくれてたんだよ」
すべての点と線が、完璧に繋がった。
なぜウォルターがあれほど深くルカを気にかけていたのか。
なぜルカが、世界中の大人を信じられず、崖の上で自暴自棄になっていたのか。
あやは胸に込み上げる愛おしさと切なさに耐えかね、ルカの逞しい手を両手でそっと包み込んだ。
「ルカ……話してくれて、ありがとう」
「あや……」
「大丈夫よ。あなたがどんな生まれだろうと、あなたが私を救ってくれた大切な人であることに、何一つ変わりはないわ」
あやの何者にも染まらない漆黒の瞳。
そこから注がれる無償の肯定と温もりに、ルカの喉仏がごくりと動いた。
ドクンッ、ドクンッ――!!
その瞬間、ルカの胸の奥底で、あの未知の【疼き】が灼熱の炎となって跳ね上がった。
鼓動が痛いほど早鐘を打つ。
すぐ隣にある、あやの華奢な身体。
耳の高さで優美に結い上げられたお団子ヘアから、無防備に晒された白く滑らかなうなじ。
漆黒の後れ毛が落とす影と、ドレスの深い胸元から漂う甘い白檀の香油。
大人の女性の柔らかさと温もりが、ルカの理性を激しく揺さぶり、狂わせそうになる。
(……綺麗だ。誰にも渡したくない……!)
ルカのスカイブルーの瞳が、熱情と獰猛な独占欲で深く濁った。
包まれたあやの手を逆に握り返し、男らしい骨張った指をあやの指先へと深く絡め合わせる。恋人繋ぎのまま、ルカは掠れた低音であやの耳元へと顔を寄せた。
「……夜会のマナーなら、全部俺に任せろ。どんな大貴族が相手だろうと、あんたに恥はかかせねぇ。
完璧にエスコートしてやる。……だから」
ルカはあやの白く滑らかなうなじを、すぐ後ろから奪うように見つめながら、熱い吐息を吹きかけた。
「……あんたは、俺の隣から一歩も離れるなよ。
あやに触れようとする奴がいたら……俺が全員、空間ごと切り落としてやるから」
すがるような、そして甘く脅すような騎士の誓い。
その熱い支配欲にあやが息を呑んだ、まさにその時――。
スゥ……と馬車が滑らかに減速し、豪奢な鉄格子の門をくぐり抜ける重厚な音が響いた。
「あや様、ルカ様。……クローデル子爵邸へ到着いたしました」
御者の声とともに、車窓の外に無数の篝火に照らされた白亜の大城館が広がった。
光と影が交錯する敵陣の只中へ、二人は静かにその第一歩を踏み出そうとしていた。




