第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(13)
重厚な馬車の扉が外から開かれ、夜露を含んだ穏やかな夜気が車内へとふわりと流れ込んだ。
「さあ、あや様。私の手を」
ルカが先に馬車から降り立つと、片膝をわずかに曲げ、完璧な角度で革手袋越しの右手を差し伸べた。
夜風に揺れる白銀の髪。魔導ランプの光を受けて青い宝石のように煌めく瞳。
その流れるような優雅な所作と、見上げる視線に宿る甘い忠誠心に、あやの心臓はトクンと高く跳ねた。
(……本当に、本物の王子様なんだわ)
あやが恐る恐るその手に自らの白い手を重ねると、ルカは羽毛を扱うような優しさであやを馬車から引き寄せ、ドレスの裾が石畳に触れないよう絶妙なバランスでエスコートした。
普段のぶっきらぼうな少年の面影は微塵もなく、指先の第一関節の動きに至るまで、十四年間王宮で叩き込まれたという完璧なロイヤル・マナーが息づいている。
そのギャップに、あやは頬が熱くなるのを止められなかった。
深紅の絨毯が敷かれた子爵邸のエントランスには、すでに大勢の貴族たちが到着し、華やかな談笑の花を咲かせていた。
しかし、あやとルカが絨毯の上に足を踏み出した瞬間――周囲の空気が、文字通りピタリと凍りついた。
「……っ」
「嘘……あの騎士、なんて美しいの……?」
最初にざわめいたのは、着飾った貴族の令嬢や夫人たちだった。
濃紺の騎士服を完璧に着こなす、ルカの彫刻のように端正な横顔。
鍛え上げられた広い肩幅と、歩くたびにしなやかに躍動する美しい体躯。
冷徹なスカイブルーの瞳が周囲を一瞥しただけで、女性たちは熱を帯びたため息を漏らし、扇で口元を隠しながら熱狂的な視線を送った。
(声をかけたい……あんな極上の騎士、自分の専属として引き抜きたい……!)
誰しもがそう思い、一歩を踏み出そうとした。
だが、ルカの隣を歩くあやの姿を見た瞬間、女性たちは息を呑んで後退りするしかなかった。
「あの令嬢……一体どこの家門の……?」
「信じられない。あの髪も、瞳も……まるで、深淵の夜空そのものじゃない……」
真夜中色のマーメイドドレスに包まれた、あやの圧倒的で神秘的な美貌。
光を呑み込む漆黒の瞳に見据えられただけで、女性たちは自らの着飾ったドレスがひどく安っぽく、滑稽なものに思えてしまい、激しい嫉妬と羨望で唇を噛むことしかできなかった。
そして、そのあやの美貌に完全に魂を抜かれていたのは、会場にいるすべての貴族男性たちだった。
「……おい、見たか。あのしなやかな曲線美を……」
「漆黒の髪……この大陸にあんな神秘的な色が存在するのか? あの深い胸元の谷間と、透き通るような白い肌……たまらないな」
男たちの視線は、下卑た欲情すら忘れるほどの心酔を帯びていた。
特に彼らの目を釘付けにして離さなかったのは、優美に結い上げられた三つ編みのお団子から無防備に晒された、白く滑らかなうなじだった。
うなじから細い首筋へと流れる色香と、後れ毛が落とす妖艶な影。
ふわりと漂う高貴な香油と白檀の香りに、すれ違う男たちは次々と歩みを止め、グラスを落としそうになる者すらいた。
「ローゼンバーグ男爵令嬢、あや様。ならびに、専属護衛騎士ルカ殿!」
従者の声が高らかに響き、大広間の巨大な両開き扉が開かれる。
まばゆいシャンデリアの光が降り注ぐ中、二人が広間へ足を踏み入れた瞬間、数百人の貴族でごった返していた会場の喧騒が、潮が引くようにスゥッと静まり返った。
音楽を奏でていた楽団すら、あやの神々しい美貌と、ルカの息を呑むような威厳に手元を狂わせ、演奏が一瞬途切れたほどだった。
広間の中心へ向かって歩き出す二人。
まるで絶対的な王と女王の凱旋のように、貴族たちからなる分厚い人垣が、自然と左右に割れて道を作っていく。
(……すごい。みんな、私たちを見てる……)
あやは極度の緊張で足がすくみそうになった。
だが、腰に添えられたルカの大きく温かい手が、あやを支え、完璧にリードし続けてくれている。
「……あや様。緊張なさらず。貴女はただ、私のエスコートに身を委ねて前だけを見ていればいい」
周囲には聞こえないほどの低く甘い囁きが、あやの耳元をくすぐった。
顔を上げると、ルカのスカイブルーの瞳が、あやだけを優しく、そして獰猛な熱を帯びて見つめ返していた。
それから少しの時間が経過し、夜会が歓談の時間に入っても、二人は会場の台風の目であり続けた。
あやにダンスを申し込もうと、あるいは素性を探ろうと、何人もの高位貴族の男たちが鼻息を荒くして近づいてこようとした。
しかし――。
ピシリ……ッ。
男たちがあやから半径二メートル以内に近づこうとした瞬間、目に見えない真空の刃のような殺気が、冷徹に彼らの足元を切り裂いた。
「――お下がりください。我が主は、現在長旅の疲れを癒やしておいでです」
ルカの氷のような声。
礼儀正しい敬語でありながら、その実態は「これ以上近づけば首を刎ねる」という絶対強者の恫喝に他ならない。
ルカの放つ特有の重圧に、名だたる帝国貴族たちが額に冷や汗を浮かべ、青ざめて逃げるように退散していく。
「ふふ、もう……ルカってば、護衛が厳しすぎるんじゃない?」
あやがシャンパングラスを片手に、少し悪戯っぽく微笑んで小声で囁いた。
すると、完璧な騎士の仮面を被っていたルカは、周囲から死角になるようにあやの背後に回り込み、その白いうなじのすぐ後ろで、本来のハスキーな声で低く唸った。
「……んなの、当たり前だろ。
どいつもこいつも、あやのうなじや胸元をジロジロ見やがって……。今すぐ全員の目を潰して、空間ごと切り刻んでやりてぇよ」
背中越しに伝わってくる、少年の狂おしいほどの独占欲と嫉妬。
その声に滲む熱烈な感情に、あやは怒るどころか、胸の奥がキュンと甘く締め付けられるのを感じていた。
(表では完璧な王子様なのに、中身は私を独り占めにしたくて堪らない男の子なのね……)
社交界の眩い光と、男たちの狂騒。
そして背後で自分を囲い込むように守る、若き王子の獰猛な愛。
表の顔である『視線集め』は、これ以上ないほど完璧に成功していた。あとは、夜会が最高潮に達する隙を突き、地下金庫へと潜入する【裏の顔】の任務へと移行するだけだ。
「……そろそろだな、あや」
ルカの声音が、ふと仕事のそれへと一段低く沈んだ。
広間の奥、主催者であるクローデル子爵が、壇上へと重々しく歩みを進めていく。
帝国の覇権と闇が交錯する夜会の、真の幕開けが迫っていた。```




