第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(14)
「皆様、本日はこのクローデルの夜会へようこそお越しくださいました!」
大広間の奥、豪奢な壇上に立ったクローデル子爵が、肥え太った胸を反らして高らかに声を張り上げた。
自己愛に満ちた子爵の顔は、権力と金への陶酔で赤く上気している。
彼が自らの偉大さを誇示する長広舌を振るおうとした――まさにその時だった。
「――レグリア帝国第十四代皇帝、レオンハルト・フォン・レグリア陛下、御到着であらせられる!」
広間の大扉の前に立つ従者が、震え裏返った声で高らかに告げた。
その名が響き渡った瞬間、数百人の貴族で埋め尽くされた大広間の喧騒が、水を打ったように静まり返った。
誰もが耳を疑い、大扉へと視線を釘付けにする。
重厚な扉が静かに、そして優雅に開かれた。
そこに立っていたのは、夜の闇を切り取ったかのように美しく、息を呑むほどに洗練された一人の男だった。
「……っ」
「ああっ……陛下……」
広間にいた女性たちが、次々と熱を帯びた吐息を漏らし、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に扇で隠した。
身長百八十八センチの、彫像のように鍛え抜かれた長身。
身に纏っているのは軍服ではない。最高級の漆黒のベルベットで仕立てられた、完璧なカッティングの夜会用フロックコート。
襟元を飾る豪奢なクラヴァットと、帝国の紋章が刻まれた銀のピンが、彼の持つ高貴さをこれ以上なく引き立てている。
シャンデリアの光を受けて深く冷たい群青の艶を放つ、宵闇の蒼黒髪。
そして、怜悧で彫りの深い美貌の中央で、知性と静寂を湛えて煌めく黄金の双眸。
大陸に二人しか存在しない『Sランク』の絶対強者。
だが、彼はその気になれば会場の空気を一瞬で圧死させられるほどの圧倒的な覇気を、極限まで精緻にコントロールし、完全に内に秘めていた。
周囲の目に映し出されるのは、暴力的な恐怖ではなく、万人が息を呑むほどの「完成された王者の品格」と「底知れぬ静かな威厳」だった。
「おお……おおお! まさか、皇帝陛下直々に、この私の夜会へ足を運んでくださるとは……!!」
静まり返る会場の中、壇上のクローデル子爵だけが、感動に打ち震えて両手を天に掲げていた。
自己愛と自己顕示欲の塊である子爵は、レオンハルトの登場を「ついに自分の功績と影響力が皇帝の耳に届き、敬意を表しに来てくれたのだ」と、完全に都合よく解釈していた。
「陛下! どうぞ、どうぞこちらの壇上へ! 私の偉大なる賓客として、ぜひ皆様に一言賜りたく存じます!」
子爵が揉み手で這いつくばらんばかりに媚びを売る。
レオンハルトはそんな滑稽な男を一瞥すると、顔色一つ変えずに、社交界の完璧な礼節に則った薄い笑みを浮かべた。
「……突然の訪問を許してほしい、子爵。貴殿の夜会が、余の耳にも届いてな」
ビロードのようになめらかで、低く響くバリトン。
冷徹な本心を微塵も覗かせない大人の余裕に、令嬢たちはさらに頬を熱くして酔いしれる。
レオンハルトは優雅な足取りで、人垣が割れてできた道を通り、壇上へと歩みを進めた。
だが、誰一人として気づいていない。
彼がこんな末端貴族の夜会に足を運んだ真の理由――それは、開会の数時間前。
帝国の最深部に設置された『国家結界探知機』が、ヴェルダン方面から【世界の理を揺るがす規格外の特異点】の魔力波形を検知したためだった。
国家の安寧を揺るがしかねない未知の脅威。自らの眼でその正体を暴き、排除すべきか見極めるために、彼は秘密裏にこの会場へやってきたのだ。
(……この会場のどこかに、結界を揺るがした元凶がいる)
壇上へと続く階段を上りながら、レオンハルトの黄金の瞳が、静かに、そして油断なく会場を見下ろす。
「……あや、俺の後ろから絶対に出るな」
群衆の最後尾近く。ルカが背広越しにあやを庇い、その細い腰を引き寄せて死角に隠した。
ルカの全身の筋肉は、鋼のように強張っていた。
レオンハルトが覇気を完璧に隠し、礼儀正しい皇帝として振る舞っていようとも、同じ高みへと手を伸ばしかけているルカの本能は、壇上の男が「帝国そのものを背負う規格外の怪物」であることを理解し、強烈な警戒の警鐘を鳴らしていた。
だが、ルカがどれだけ完璧にあやを庇おうとも。
壇上の中央に立ち、優雅に振り返ったレオンハルトのトパーズの瞳が、群衆の海を鋭く精査した――その刹那。
「…………」
レオンハルトの冷徹な視線が、一点で完全に凍りついた。
極彩色のドレスと宝石で着飾った、何百人もの貴族たち。
その俗悪な華やかさの中で、まるでそこだけ空間の理が書き換えられているかのように、周囲の光をすべて呑み込む深淵の漆黒。
ルカの肩越し。ほんのわずかな隙間から覗く、夜会用に優美に結い上げられた三つ編みのお団子ヘアと、無防備に晒された白く滑らかなうなじ。
そして、戸惑いながらも凛として壇上を見つめ返すあやの漆黒の瞳。
その姿を捉えた瞬間――。
ドクンッ……ッッ!!
レオンハルトの胸の奥底で、冷酷に凍結させていたはずの心臓が、耳障りなほどの音を立てて強く脈打った。
(……なんだ、この女は……?)
眉根がわずかに動く。
レオンハルトは、女の容色や身なりなどに心を動かされたことなど一度としてない。
擦り寄ってくる貴族令嬢も、美貌を武器にした他国の間者も、幾千人と冷徹に切り捨ててきた。
だが――あの黒髪の女が纏う空気は、あまりにも異質だった。
光を吸い込むような漆黒の瞳。
そして、あの細い首筋の奥から漏れ出している、底知れぬ原初の波動。
肌がビリビリと粟立つほどの、未知の神聖属性。
長年の権力闘争と暗殺の危機をくぐり抜けてきたレオンハルトの研ぎ澄まされた直感が、激しい警鐘を鳴らしていた。
(……間違いない。あの女だ。帝国の結界探知機を狂わせた元凶は……)
なぜ、あのような規格外の存在が、身元を偽ってこんな末端貴族の夜会に紛れ込んでいるのか。
ヴェルダンからの刺客か。それとも、帝国を揺るがす新たなる災厄の引き金か。
不審、疑念、そして冷徹なまでの警戒。
だが同時に、その冷たい警戒心の隙間を縫うように、胸の奥底で消えない奇妙な動悸が、レオンハルトの理性を微かにざわめかせていた。
(……ただの人間ではない。あの得体の知れない女の底を、余自ら暴かねばならんな)
黄金の双眸が、危険な獲物を捉えた猛禽のように、鋭く細められる。
冷徹な覇王による、底知れぬ特異点への監視と疑惑。
運命の視線が交錯した瞬間、夜会の華やかな光の裏で、二人の間に張り詰めた緊迫の糸が結ばれた。




