第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(15)
「――子爵。歓談の邪魔をしたな。杯を交わすがいい」
レオンハルトは壇上から短く告げると、へつらうクローデル子爵の言葉を待たずに背を向けた。
その踵が、大理石の階段を静かに降りていく。
カツン、カツンと冷徹に響く革靴の音。
広間の貴族たちは息を呑み、皇帝が進む先から慌てて身を引いて左右へと割れていった。
(……どこへ向かわれるのだ?)
(あの先におわすのは……先ほど会場を騒然とさせていた、新興貴族の……)
広間中の視線が、レオンハルトの歩みの先へと注がれる。
その矛先が自分たちであると悟った瞬間、あやの前に立っていたルカが、静かに一歩前へと踏み出した。
サッと身を滑らせ、あやの身体を完全に己の背後へと隠すルカ。
銀の刺繍が施された濃紺のチュニックを揺らし、腰の儀礼剣の柄にそっと革手袋の指を添える。
百七十六センチの身体を凛と引き伸ばし、胸の奥で暴れる激しい【疼き】を鋼の理性でねじ伏せながら、冷徹なスカイブルーの瞳で覇王を見据えた。
一歩も引かない。
相手が一国の皇帝であろうと、世界最強のSランクであろうと、あやに指一本触れさせる気など毛頭ないという獰猛なまでの覚悟。
二人の距離が、わずか五歩に縮まったところで――レオンハルトの足が止まった。
身長百八十八センチ。
見下ろすレオンハルトの体躯は、百戦錬磨の戦場を潜り抜けてきた絶対者特有の重圧を放っている。
宵闇の蒼黒髪がシャンデリアの光を浴びて深青に閃き、怜悧な美貌の中央で、黄金の双眸がルカを冷たく値踏みした。
「……見事な立ち居振る舞いだ、若き騎士よ。だが、少々気が立ちすぎているのではないか?」
低く滑らかなバリトン。
礼節に満ちた大人の余裕を漂わせながらも、その言葉の裏には「余の前に立ちふさがる意味を理解しているのか」という底知れぬ威圧が潜んでいた。
対するルカは、寸分の隙もない完璧な宮廷騎士の礼法を崩さず、低くハスキーな声で返した。
「滅相もございません、皇帝陛下。不肖の身なれど、主命によりレディをお守りする役目を仰せつかっております。……我が主は長旅で少々疲れておいでです。何卒ご容赦を」
張り詰めた沈黙。
会場の貴族たちが恐怖で息を止める中、レオンハルトの薄い唇が、微かに弧を描いた。
(……この少年、ただの護衛ではないな)
レオンハルトの観察眼は、ルカの骨格、重心の置き方、そして隠しきれない王族特有の洗練された所作を一瞬で見抜いていた。
だが、彼が本当に探るべき標的はその背後にいる。
「そう警戒するな。余はただ、見慣れぬ芳しい花に挨拶をしに来たまでだ」
レオンハルトの黄金の瞳が、ルカの肩越し――あやへと真っ直ぐに向けられた。
逃げ場のない王者の視線。
あやは覚悟を決め、ルカの背中からそっと横へと歩み出た。
雪のように透き通った陶器のような素肌。すっと通った涼やかな鼻梁と、淡い紅を引いた瑞々しい唇、そして光をあまねく呑み込む深淵の黒い瞳――その神秘的な美貌からは、見る者を圧倒する静謐で神聖なオーラが静かに立ち上っていた。
真夜中色のマーメイドドレスの裾を優雅に引き、あやは膝をわずかに沈めて、完璧なカーテシーを披露した。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。ヴェルダンより参りました、ローゼンバーグ男爵が娘、あやと申します。……陛下の御尊顔を拝し、身に余る光栄に存じます」
社畜時代に培った完璧な営業スマイルと、先ほど馬車の中でルカから教わった貴族の挨拶。
凛とした澄んだ声が、静まり返る広間に心地よく通った。
至近距離で見据えるレオンハルトの眉根が、ほんのわずかに動く。
やはり、ただの令嬢ではない。
何者にも染まらない漆黒の瞳。
そして、その白い首筋の奥から漂ってくる、帝国の結界探知機を狂わせた底知れぬ原初の波動。
魔力を隠蔽しているようには見えない。なのに、魂の深淵が底なしの虚空のように見通せないのだ。
(……何者だ? ヴェルダンの男爵家に、これほどの怪物が眠っていたはずがない)
国家を脅かす特異点への、冷徹な疑心と警戒。
レオンハルトは探るように、黄金の双眸をあやの漆黒の瞳へと深く沈み込ませた。
「ローゼンバーグ男爵令嬢か。……余の帝国を、楽しんでいただけているかな?」
「はい。息を呑むほどに美しく、荘厳な国でございます」
あやが顔を上げ、レオンハルトの瞳を真っ直ぐに見つめ返した――その瞬間だった。
トクン……ッ。
あやの脳裏で、何かがパチンと弾けた。
瞳の奥底で、金色の古代文字が無音で高速回転を始める。
――【万象読解】の無意識の発動。
あやの視界が反転し、目の前に立つ『皇帝レオンハルト』という男の魂の深層が、鮮明な情報として流れ込んできた。
(……え……?)
あやは息を呑んだ。
冷酷で傲慢な絶対君主――誰もが恐れるその仮面の裏側にあったのは、あまりにも痛々しい光景だった。
何重もの鋼鉄の鎖で縛り付けられた、凍てつく心臓。
信じた重臣たちの裏切り、幼少期からの暗殺未遂、国を守るために切り捨ててきた無数の命。
誰にも甘えられず、弱音を吐くことも許されず、血と泥の玉座にたった一人で座り続けてきた男の魂は――全身がひび割れ、今にも音を立てて砕け散りそうなほど、ボロボロに擦り切れていたのだ。
(この人……こんなにも……一人で……)
あやの漆黒の瞳に、恐怖や畏怖ではなく、深い慈愛と胸を締め付けられるような切なさが滲み出た。
それは、傷ついた迷子を見つめるような、あまりにも無防備なあわれみと受容の眼差しだった。
「…………っ!?」
レオンハルトの呼吸が、喉の奥で詰まった。
今まで誰からも向けられたことのない視線。
恐れでもなく、媚びでもなく、欲望でもない。
自分の凍りついた孤独を、すべて見透かされたかのような、あたたかく痛切な眼差し。
心臓が、激しく跳ね上がる。
全身の血が逆流するような衝撃に、レオンハルトの黄金の瞳が鋭く収縮した。
「……貴様。……俺の、何を見ている?」
低く掠れた、冷徹な詰問。
完璧だった皇帝の鉄壁の理性に、決定的な亀裂が走った瞬間だった。




