第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(16)
「……貴様。……俺の、何を見ている?」
低く冷え切ったレオンハルトの問いが、二人の間のわずかな空気を凍りつかせる。
黄金の双眸の奥に宿る、剥き出しの警戒と激しい動揺。
普通の令嬢であれば、その冷徹な眼光に射抜かれただけで腰を抜かしていただろう。
だが、あやは逃げなかった。
社畜として修羅場をくぐり抜けてきた大人の矜持と、そして何より――先ほど視界に焼きついた、男の砕け散りそうな魂の痛みが、あやの足をその場に留めていた。
あやは知的な二重に縁取られた涼やかな切れ長の瞳をわずかに細め、伏せていた長い黒睫毛をゆっくりと持ち上げた。
雪のように白い肌に、静かで、慈しむような微笑を浮かべる。
「……滅相もございません、皇帝陛下。ただ、あまりに孤高で……帝国のすべてをその御身一つで背負われていらっしゃる陛下のお姿に、畏れ多くも、深く胸を打たれてしまいました」
凛とした、澄んだ声だった。
言葉の表面だけを拾えば、皇帝を讃える完璧な社交辞令にすぎない。
だが、その言葉に宿る熱と、真っ直ぐに注がれる漆黒の眼差しは、レオンハルトの胸の最深部に突き刺さった。
(……この女、本当に……俺の『中身』を……!?)
レオンハルトの喉が、微かに上下した。
誰にも見せなかった、誰にも知られてはならなかった、血に塗れた孤独。
それを、初対面の得体の知れない女が、いとも容易く暴いてみせたのだ。
恐怖か、警戒か、あるいは――魂の底から湧き上がる名状しがたい戦慄か。
レオンハルトの冷徹な理性の奥で、昏く濁った執着の炎が音を立てて燃え上がった。
「……面白い」
ふ、とレオンハルトの薄い唇が冷ややかに持ち上がる。
絶対君主としての優雅な仮面を取り戻しながらも、その黄金の双眸は、逃がさぬとばかりにあやを捕らえて離さない。
「余をそこまで深く見定める令嬢に出会ったのは、生まれて初めてだ。……ならば、その言葉がただの追従か否か、余自ら確かめさせてもらおう」
レオンハルトは身をわずかに前に倒し、漆黒の手袋に包まれた大きな右手を、あやの前へと滑らかに差し出した。
「一曲、余と踊ってもらおうか。ローゼンバーグ男爵令嬢」
――息を呑む音が、広間のあちこちから重なって響いた。
「嘘でしょう……!? 皇帝陛下自ら、ダンスをお望みになられるなんて……!?」
「あの方、これまでいかなる国の王女からの誘いも冷徹に断られてきたはずでは……!?」
貴族令嬢たちの扇を握る手が怒りと嫉妬で白く強張り、広間全体が蜂の巣をつついたような衝撃とどよめきに包まれる。
帝国の絶対者が、無名の令嬢に差し伸べた手。
拒絶など許されない、絶対の招待。
あやが息を呑み、反射的にその手袋を見つめた――その刹那だった。
バッ――!!
鋭い衣擦れの音とともに、あやとレオンハルトの間に、鋼のような影が割り込んだ。
「――滅相もございません」
低く、硬質に響いたハスキーな声。
ルカだった。
ルカはあやを背後へ完全に隠すように身をねじ込むと、レオンハルトが差し出した漆黒の手の前に、己の革手袋をはめた右腕を遮るように突き出した。
一国の皇帝に対する、決定的な拒絶の壁。
「何をしている、無礼者めが……!」
遠巻きに見ていた近衛兵たちが剣の柄に手をかける音が響く。
だが、ルカは眉一つ動かさず、完璧な宮廷礼法の角度を保ったまま、スカイブルーの瞳を氷のように冷たく研ぎ澄ませていた。
「恐れながら皇帝陛下。我が主はヴェルダンからの長旅により、足元をひどく痛めておいでです。……これ以上のご無理は、主命を預かる護衛として看過いたしかねます」
不敬罪としてその場で首を刎ねられてもおかしくない、ギリギリの挑発。
ルカの濃紺のチュニックの下で、全身の筋肉が獲物に飛びかかる獣のように引き絞られている。
胸の奥で暴れる激しい【疼き】が、ルカの理性を焼き切らんばかりに脈打っていた。
渡さない。
相手が世界最強の皇帝だろうと、あやにその手を触れさせることだけは、絶対に許さないという獰猛なまでの独占欲と忠誠。
広間を、死刑執行の直前のような絶対零度の静寂が支配する。
レオンハルトは差し伸べていた手を引っ込めることもせず、冷徹な視線をゆっくりとルカへと落とした。
身長百八十八センチと百七十六センチ。
見下ろす覇王と、見上げる若き獣の視線が、至近距離でバチバチと火花を散らす。
レオンハルトの黄金の双眸が、氷のように細められた。
「……身の程を弁えろ、番犬。誰の前に立っているのか忘れたか?」
身の毛もよだつほどの冷気を孕んだ、絶対者のバリトン。
男と男のプライドが、張り詰めた社交界の中心で激突していた。




