第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(17)
「……身の程を弁えろ、番犬。誰の前に立っているのか忘れたか?」
低く冷徹なレオンハルトの声音が落ちた瞬間、大広間の空気が鉛のように重く沈み込んだ。
大陸に二人しか存在しないSランクの絶対者が放つ、研ぎ澄まされた覇気。
その不可視の重圧を真正面から浴びたルカの喉から「ぐっ……!」と苦悶の息が漏れ、その爪先が床に縫い止められたように微動だにできなくなる。
格が違う。
ルカがどれほど類稀な天賦の才を秘めていようと、血みどろの玉座を守り抜いてきた帝国の覇王との間には、現時点では覆しようのない絶対的な力の差が横たわっていた。
「ルカ……っ」
あやが息を呑み、ルカの強張った背中へと手を伸ばそうとした――その刹那。
すっと、冷たく気高い影があやの視界を覆った。
レオンハルトが、金縛りに遭ったルカの横を優雅にすり抜け、あやの眼前へと踏み込んできたのだ。
百八十八センチの長身が、あやの頭上を完全に制圧する。
逃げ場のない圧倒的な体格差。
宵闇の蒼黒髪から漂う、冷えた夜気に溶け込む甘い花のようなベルガモットの芳香が、あやの呼吸を甘美に奪う。
(近い……っ)
あやの胸が激しく跳ね上がる。
広間の貴族たちからは、皇帝が見初めた令嬢へと甘やかに歩み寄っているようにしか見えないだろう。
だが実際は――逃走の余地を一切与えない、絶対強者による冷酷な包囲網だった。
レオンハルトはわずかに腰を屈め、あやの結い上げた黒髪の隙間――吐息が触れるほどの至近距離に、怜悧な唇を寄せた。
周囲の喧騒を完全に遮断し、あやの鼓膜だけに直接落とされる、低く響くハスキーボイス。
「……見え透いた嘘をつくな。俺の前で、そんな言い訳が通ると思っているのか?」
その響きに、あやの背筋をゾクリとした戦慄が駆け抜ける。
公の場で使っていた『余』ではない。
冷徹な仮面を剥ぎ取った、剥き出しの若き覇王の声音――『俺』の囁き。
「足が痛い? そんな顔じゃないな。……あんな目で俺の深淵を覗き込んでおいて、ただで逃げられるなどと思うなよ」
黄金の双眸が、あやの知的な二重に縁取られた切れ長の瞳を至近距離で射抜く。
その瞳の奥には、研ぎ澄まされた猜疑心と、それ以上に激しく渦巻く、未知の特異点を前にした飢えた獣のような光が宿っていた。
「帝国の結界を揺るがした元凶が、まさかこれほど華奢な女とはな。……何を企んでいる、ヴェルダンの令嬢?」
首筋に冷たい刃を突きつけられているような緊張感。
だが、あやは決して目を逸らさなかった。
雪のように白い肌を強張らせながらも、長い黒睫毛を凛と上げ、光を呑み込む漆黒の瞳でレオンハルトを静かに見つめ返す。
その揺るぎない眼差しに、レオンハルトの薄い唇が、愉悦を孕んでわずかに弧を描いた。
「……いいだろう。今ここで吐く必要はない。お前が何者で、何を隠しているのか――この俺自ら、すべて暴いてやる」
耳元をくすぐる熱い吐息と、絶対者としての宣戦布告。
レオンハルトは身を起こすと、躊躇うことなくあやの白く細い右手を取った。
漆黒の手袋越しに伝わってくる、男の硬く引き締まった手のひらの熱。
そして、広間中の令嬢たちが息を呑み、嫉妬と衝撃に打ち震える前で――。
レオンハルトは恭しく、だが決して振りほどけない強さであやの手の甲を引き寄せ、その白磁の皮膚へと、己の唇を深く落とした。
ちゅっ……と、微かな、だが抗いようのないほど艶めかしい音が、静まり返る空間に落ちる。
「なっ……!?」
ルカのスカイブルーの瞳が、怒りと屈辱で限界まで見開かれた。
「あや……!!」と叫び、金縛りのような威圧を気迫でねじ伏せて剣の柄を握り直すルカ。
その剥き出しの殺気すら、レオンハルトは冷ややかな流し目一つで受け流す。
唇を離したレオンハルトは、手の甲に残る己の体温を見せつけるようにあやの瞳を覗き込み、不敵な笑みを浮かべた。
「――また会おう、あや」
名残惜しそうに指先を滑らせて手を放すと、レオンハルトは優雅に踵を返した。
漆黒のベルベットの裾を翻し、息を呑む貴族たちの人垣を割って、大広間の出口へと歩み去っていく。
振り返ることは一度としてない。
だが、彼がこの場に残していった強烈な執着と独占の熱は、夜会全体の空気を決定的に支配していた。
「あや……っ! 大丈夫か!? あんな奴に……どこか触られて怪我は……!」
皇帝の足音が遠ざかった瞬間、ルカが弾かれたようにあやの元へ駆け寄り、その細い肩を抱き寄せた。
ルカの碧眼は、屈辱と、あやを奪われかけた狂おしい焦燥で激しく揺れている。
「大丈夫よ、ルカ。……なんともないわ」
あやは小さく息を吐き出し、口づけを落とされた自分の右手をそっと見つめた。
手袋越しだったはずなのに。
皮膚の奥深くまで、あの冷徹で孤独な男の熱が、呪いのように焼き付いて離れなかった。




