第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(18)
広間中の令嬢たちの刺すような嫉妬と、貴族たちの好奇の視線。
息が詰まるほどの喧騒を背に、ルカはあやの手を引いて足早に歩き、ガラス扉を抜けて吹き抜けのテラスへと抜け出した。
柔らかな夜風が、二人をふわりと優しく包み込む。
澄んだ冷気が、火照っていたあやの白磁の頬を優しく冷ましていく。
だが――右手の甲に焼き付いた感覚だけは、どうしても消えなかった。
手袋越しに押し付けられた、レオンハルトの硬く熱い唇の感触。
そして、鼻腔の奥にこびりついて離れない、冷えた夜気に溶け込む甘い花のようなベルガモットの芳香。
(……あの男の人の、熱……)
あやが無意識に自分の右手を胸元で抱きしめようとした――その瞬間だった。
「あや」
低く掠れた、ハスキーな声。
手袋を外したルカの指先が、あやの右手首を捕らえた。
強い力ではない。だが決して振りほどくことを許さない、研ぎ澄まされた力加減。
引き寄せられたあやの身体が、月明かりの下、ルカの胸元へと滑り込む。
見上げるあやの切れ長の瞳を、ルカのスカイブルーの瞳が至近距離で見据えていた。
二十歳の青年が持つ、骨ばった大人の体躯。
普段の従者としての怜悧な仮面を剥ぎ取り、そこにあったのは、大切な女性を眼前で奪われかけた一人の男の、剥き出しの焦燥と昏い独占欲だった。
――奪われる。
その強烈な恐怖と焦りがあやの残り香によって脳裏に蘇った瞬間、ルカの胸の最奥で、ドクン……! と異様な鼓動が跳ねた。
(……っ!? なんだ、これは……)
ルカの呼吸が微かに乱れる。
ずっと心の奥底に封じ込められていた重い扉の隙間から、得体の知れない熱い泉がこんこんと湧き出してくるような、強烈な違和感。
細胞の一つ一つが歓喜の声を上げ、抑えきれないほどの未知の力が、あやを求める渇望と結びついて全身の血を沸騰させようとしている。
自身でも制御のつかないその圧倒的な力の予兆を、ルカは奥歯を噛み締めて必死に深淵へと押さえ込んだ。
そして、その熱の行き場を求めるように、あやの手の甲を己の唇すれすれの頬へと引き寄せた。
「……あんな奴に、二度と触らせないでくれ」
皇帝が刻みつけた見えない毒を、自分の熱で削ぎ落とそうとするかのように。
伏せられたルカの長い睫毛が、男としてのプライドの軋みと激しい悔恨に震えている。
「俺がもっと強ければ……あの場で叩き斬ってでも、あやを隠せたのに。……触らせちまった」
悔しげに喉を鳴らすルカの首筋に、青い筋が浮かぶ。
あやは胸を突かれ、空いた左手をそっと伸ばして、ルカの胸元のチュニックに指先を添えた。
分厚い布地越しでも伝わってくる、ルカの心臓の異常なまでの激しい拍動。
「責めないで、ルカ。相手はあの皇帝よ。あなたの踏み込みがなかったら、本当に逃げられなくなっていたわ。……守ってくれて、ありがとう」
あやが静かに微笑みかけると、ルカの瞳に滲んでいた張り詰めた色が、切なげに揺らいだ。
ルカが低く息を呑み、あやの手の甲に自らの唇を重ねようと、熱い息を落とした――その刹那。
バサササッ!
夜の静寂を切り裂く、けたたましい羽音。
「ちょっとあやきち! そこのルカも! この麗しきわたくしをテラスで待ちぼうけにさせるとは、いい度胸ですこと!」
大石の手すりにふわりと華麗に舞い降りたのは、紫水晶の瞳を持つ白銀のフクロウ――フク子だった。
胸を反らし、嘴をツンと上に向けて二人を見下ろす。
そして、月明かりの下で手を重ね合っていた二人のただならぬ空気を察するや否や、フク子はジト目を向けて呆れたように嘴を鳴らした。
「まあ! わたくしが命懸けで飛んでいる間に、なんですのその甘ったるい空気は? ルカ、顔が近くてよろしくなくてよ。さっさと離れなさいな!」
「…………チッ」
ルカは舌打ちを一つ落とし、露骨に不機嫌な視線を手すりの上のフクロウへ向けた。
だが、その瞳からは先ほどの熱っぽさと、謎の力の暴走の気配は消え去り、一流の戦士としての冷徹な鋭さが一瞬で戻っていた。
あやの手を名残惜しそうに離しながら、冷淡な声音で切り捨てる。
「……用件だけ話せ、焼き鳥。成果はどうなんだ」
「誰が焼き鳥ですの、この無礼者! ふん、当然パーフェクトに決まってよろしくてよ!」
フク子は喉を誇らしげに鳴らすと、紫水晶の瞳を引き締め、声を落としてあやへと顔を寄せた。
「邸宅の裏手、厨房の真下を通る排気ダクトから、地下金庫の真上へと直通するルートを暴いて差し上げましたわ。それに……ふふ、あやきち! さっき大広間にあの傲慢な皇帝陛下が乗り込んできたおかげで、邸内の警備兵の半分が広間の警護に駆り出されておりますの! 地下の巡回、すっからかんですわよ!」
「……皇帝の襲来が、最高の陽動になったわけか」
ルカが口元に冷ややかな笑みを浮かべ、腰の儀礼剣の位置を直す。
あやの瞳の奥にも、社畜時代に培った冷静沈着なプロのスイッチがカチリと音を立てて入った。
胸に残る強烈なレオンハルトへの余韻を完全に思考の檻へと押し込め、あやはマーメイドドレスの裾をわずかに持ち上げた。
「行くわよ、二人とも。……クローデル子爵の不正の証拠、全部根こそぎ回収してやるわ」




