第2章:4の皇帝――覇道と凍てる孤高(19)
真夜中色のマーメイドドレスの裾を片手で器用に捌き、あやはテラスの死角から夜の闇へと滑り出した。
社畜時代に終電間際の雑踏をヒールで音もなく駆け抜けていた経験と体幹の良さが、思わぬところで役に立っていた。
「あやきち、ルカ、こちらですわ! わたくしの美しい羽の軌道から目を離さないでよろしくてよ!」
頭上すれすれを滑空する白銀のフクロウ――フク子が、紫水晶の瞳を暗視鏡のように光らせて先導する。
厨房の勝手口から地下へと続く換気用の搬入路。
皇帝レオンハルトの降臨に浮き足立つ広間の喧騒を頭上に聞きながら、三人は気配を殺して地下通路の奥深くへと潜り込んでいった。
だが――地下金庫へと続く最後の曲がり角に差し掛かった、その瞬間だった。
(……え?)
あやの足先が、床のわずかな継ぎ目を踏み越えようとした刹那。
タイルの隙間に埋め込まれた不可視の魔導糸が、微かに青い燐光を放った。
侵入者を感知して起動する迎撃トラップ――。
壁の奥から、石造りの防衛ゴーレムが重厚な腕を振り上げ、あやの頭上へ振り下ろされようとした。
「っ、あや……!」
あやが息を呑むより早く、世界がスローモーションに歪んだ。
ルカの胸の最奥で、先ほどテラスで芽生えた【熱い泉】が凄まじい勢いで決壊したのだ。
ドクン、と灼熱の波動が血管を駆け巡る。
考えるよりも早く、ルカの身体が常識外れの速度で弾け飛んでいた。
ダンッ!
音すら置き去りにする超反射。
ルカはあやの腰を左腕で抱き寄せて瞬時に引き戻すと、右手で腰の儀礼剣を抜くことすらなく、鞘の先端をゴーレムの胸部核へ向けて撃ち抜いた。
バシィッ――!!
乾いた小さな打撃音。
それだけで、本来なら小隊規模の魔術でしか破壊できないはずの魔導ゴーレムが、核から蜘蛛の巣状に亀裂を走らせ、魔法の光を失ってガラガラと音もなく崩壊した。
「……え……?」
あやはルカの腕の中で目を丸くした。
一体、何が起きたのか。
抱きすくめてくるルカの身体から立ち上る、圧倒的な熱量。
だが、一番動揺していたのはルカ自身だった。
「……っ、なんだ、今の……?」
ルカは息を荒げ、自らの右手を凝視した。
剣の鞘を握っていた革手袋が、内側からの熱気で微かに燻っている。
あやを守りたい、失いたくないと強く念じた瞬間に湧き出た、説明のつかない異様な膂力と速度。
自身の肉体に眠る底知れぬ力に、ルカのスカイブルーの瞳が困惑に揺れていた。
「ルカ、怪我は……?」
「……いや、なんでもない。大丈夫だ」
ルカは咄嗟に熱を押し殺し、あやの身体をゆっくりと床へ戻した。
フク子が手すりからバサリと降り立ち、「まあ、乱暴な力技ですこと。でも助かりましたわね」と嘴を鳴らす。
目の前には、地下金庫の重厚な鉄扉が立ち塞がっていた。
子爵が全財産を投じて特注したとされる、最高位の多重魔導結界。
物理的な破壊は不可能であり、複雑奇怪な古代文字の暗号が、青白い幾何学模様となって扉一面に脈打っている。
「……この結界、力ずくじゃ開かないな。正規の鍵か解除コードがないと……」
ルカが悔しそうに眉根を寄せた時、あやが一歩前へと進み出た。
「待って。……見せて」
あやが瞳を凝らすと、漆黒の虹彩の奥で、金色の古代文字が無音で高速回転を始めた。
――【万象読解】。
視界が一変する。
青白く光る結界の幾何学模様が、まるでコンピューターのソースコードのように分解され、魔力の流れるルートと論理構造が網膜へと流れ込んできた。
(……すごい。人の心だけじゃない……魔法の構造まで読めるの……!?)
あや自身、自らの力に戦慄していた。
社畜時代、複雑に絡み合った他人のバグだらけの仕様書を読み解いていた感覚が蘇る。
まだ完全に使いこなせているわけではない。手探りで、恐る恐る自らの魔力を指先に集め、結界の『論理の結び目』へとそっと触れた。
(ここをこう繋ぎ変えて……バイパスを通して、セキュリティの認証を誤認させれば……!)
ツン、と指先で光の糸を弾く。
キィン……と澄んだ高い音が一度だけ小さく鳴り響き――直後、扉を覆っていた幾何学模様の結界が、パズルのピースが解けるようにスルスルと霧散していった。
ガシャリ。
重厚なロックが、静寂の中で呆気なく外れる。
「……嘘、本当に解けちゃった……」
あや自身が自らの手のひらを見つめ、驚きに切れ長の目をパチクリと瞬かせた。
こんな非常識な芸当ができるなど、自分でも半信半疑だったのだ。
だが、その隣で息を呑んでいたルカの衝撃は、それを遥かに超えていた。
(……信じられない。帝国の特級魔導士ですら数時間はかかる古代暗号を……触れただけで……?)
月光を透かすような白磁の肌、息を呑むほどに美しい容姿。
だが、目の前のあやは、ただ守られるだけの深窓の令嬢などでは決してなかった。
冷静な判断力、恐れを知らぬ勇気、そして底知れぬ未知の才覚――。
(……俺は、この人のことを……)
ルカの胸の奥で、無力感と焦燥が激しく渦巻いた。
俺はあやのことを、何一つ知らなかったのではないか。
どれほど背伸びをしても、あやの見ている世界の高みには届かないのではないかという恐れ。
そしてそれ以上に――彼女のすべてを知り尽くしたいという、狂おしいほどの渇望と関心が、ルカの碧眼を昏く染め上げていた。
「開いたわ。……中へ入るわよ、ルカ、フク子」
あやが振り返り、凛とした声で合図を出す。
音もなく重い扉が押し開かれ、三人は闇に包まれた子爵の地下金庫へと足を踏み入れた。




