第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(8)
原生林の木々を抜けると、香ばしい焼き菓子の匂いと、行き交う人々の活気ある喧騒がふわりと風に乗って運ばれてきた。
目の前に広がっていたのは、白く磨かれた石畳と、淡いテラコッタ色の煉瓦造りの家々が並ぶ、活気に満ちた街並み――交易都市『ヴェルダン』。
四季の巡りのないアルカニア特有の、肌を優しく撫でる心地よい常温の風。
行き交う人々は軽やかなリネンや絹の衣を身に纏い、穏やかに言葉を交わし合っている。
見上げる青空の天頂には、白磁の二つの満月が寄り添うように浮かび、露店の天幕を柔らかく照らし出していた。
「すごい……。本当に別の世界に来ちゃったのね」
あやが足を止め、街並みを見上げて感嘆の息を漏らした、その瞬間だった。
ぐい、と右手を強引に引かれる。
「……っ!?」
引き寄せられた拍子に、あやの肩がルカの胸板に軽く触れた。
百七十六センチのルカは、十二センチ背の低いあやを背後から庇い立てるように立ちふさがり、周囲へ向けて露骨な警戒の眼差しを放っている。
「ルカ? どうしたの?」
「……どうしたの、じゃない。あんた、無自覚すぎるんだよ」
ルカの声は低く掠れ、どこか余裕を失っていた。
道行く商人や護衛の冒険者、露店の客たちが、すれ違いざまに次々と足を止め、吸い寄せられるようにあやを見つめていたのだ。
純白のドレスをまとい、黒髪を風になびかせる大人の美女。
東京のオフィスで培われた洗練された気品と、三十代特有の落ち着き、そして魂の奥底から滲み出る圧倒的な包容力。
すれ違う男たちが息を呑み、あわよくば声をかけようと視線を彷徨わせている。
その視線の熱に気づいた瞬間、ルカの胸の奥で、カッと焼け付くような苛立ちと焦燥が跳ね上がった。
(……見んな。俺のあやを、汚い目で見てんじゃねぇ……!)
誰にも見せたくない。
あやが自分にだけ向けてくれたあの優しい微笑みも、手首を掴んでくれた温もりも、すべて自分だけのものにして閉じ込めてしまいたい。
そんな醜い独占欲が喉元までせり上がり、ルカは自嘲するように奥歯を噛み締めた。
ルカはあやの手を、指を絡めるようにしてぎゅっと深く握り直した。
男らしい骨張った手のひらに、あやの柔らかく冷たい指先が収まる。
触れた瞬間、ルカ自身の心臓がドクンと耳の奥で激しく鐘を打った。強がって引き寄せたはずなのに、肌が触れ合うたび、翻弄されているのは自分の方だった。
「離れんなよ。……あんた、すぐどっか行っちまいそうだから」
「ふふ、迷子にならないように気をつけるわ。ありがとう、ルカ」
あやは少しも嫌がることなく、それどころか頼もしい弟を褒めるように、ふわりと慈愛に満ちた笑みを返してきた。
その屈託のない笑顔の破壊力に、ルカの喉仏がごくりと上下する。
カッと耳の付け根まで熱くなるのを隠すように、ルカは咄嗟に顔を背けた。
「……お待ちなさい、ふたりとも! くだらない色恋沙汰で私の胃袋を焦らすのは重罪ですわよ!」
あやの左肩から、フク子の抗議の声が飛んだ。
紫紺の翼をパタパタと広げ、ふっくらした胸を反らせる。
「漂ってまいりましたわ……! この芳醇にして重厚な苦味のアロマ!
間違いありません、あそこの露店でカカオの実が焙煎されていますわよ!」
「はいはい、わかったから」
あやが苦笑し、ルカに手を引かれながら香ばしい煙の立ち上る露店へと歩み寄った。
天幕の下には、濃い焦げ茶色の焼き菓子や、籠に盛られた艶やかな木の実が並んでいる。
店主の気のいい初老の男が、あやの姿を見るなり目を奪われたようにぽかんとし、慌てて愛想笑いを浮かべた。
「へ、へい、いらっしゃい! ……おやおや、見事な美女と色男のお客さんだね。うちの名物『ビター・カカオのタルト』はどうだい? 濃厚な苦味が疲れた身体によく効くよ」
「それですわ――ッ!!」
フク子が身を乗り出して嘴を鳴らす。
あやが「あ……」と財布を探す仕草をして足を止めると、ルカがすかさず腰の革袋から銀色のコインを二枚取り出し、カウンターへコトッと置いた。
「ふたつくれ」
「まいどあり!」
ルカは手早く包みを受け取ると、あやを振り返り、少し誇らしげに顎をしゃくった。
「ルカ、悪いわね……。私、この世界のお金を持ってなくて。後で必ず返すから」
「返すとか言うな。……俺に、あんたの面倒くらい見させろよ」
ルカはぶっきらぼうに呟いたが、その瞳には「頼りにされたい」という純粋な熱が宿っていた。
あやはそんな少年の背伸びがたまらなく愛おしく思え、自然と目を細めた。
「ありがとう。すごく頼もしいわ」
あやがそっとルカの腕に手を添えて礼を言うと、ルカはビクッと肩を跳ねさせた。
大人の女性の柔らかく滑らかな手の感触、至近距離から漂う白檀の甘い香り。
ルカのスカイブルーの瞳が激しく揺らぎ、今度こそ顔全体が真っ赤に染まりかける。
「っ……べ、別に……このくらい当たり前だろ」
視線を泳がせながら、ルカは包みを開けてタルトを小さくちぎり、まずは肩の上でジタバタしているフク子へと差し出した。
フク子は器用に嘴で受け取ると、うっとりと目を細めて喉を鳴らした。
「……んん〜〜っ! これですわ!
この舌を痺れさせるカカオの濃厚な苦味! 厄災の悪しき波動を喰らった後の口直しには、この極上の苦味しかありませんわね……!」
「本当においしそうに食べるわね」
あやが目を細めて笑っていると、ルカが残りのタルトを半分に割り、あやの前へと差し出した。
「あやも食えよ。……美味いぞ」
「ありがとう。いただきます」
あやがタルトを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、ルカの手がわずかに引っ込んだ。
見上げると、ルカはどこか緊張した面持ちで、自らの指でタルトをつまんだまま、あやの唇の前に差し出している。
「……俺の手から、食ってほしい」
掠れた声。強気な普段の態度とは裏腹に、拒絶されるのを極度に恐れているかのように、瞳が微かに震えていた。
あやを喜ばせたい、けれど触れ合うのが怖い、それでも深く繋がりたい――そんな少年の不器用な葛藤がひしひしと伝わってくる。
あやはふっと眉を和らげると、拒むことなく、素直におずおずと唇を寄せた。
サクッ、と柔らかな音。
あやの薄紅色の唇が、ルカの指先にかすかに触れながら、タルトの端を優しく食み取る。
「っ……」
指先に触れた、信じられないほど柔らかく温かな感触。
ルカの喉が詰まり、呼吸が完全に止まった。
頭の芯がカッと白熱し、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴れ狂う。
「……ん、ほんのりビターで、すごく美味しい」
あやは美味しそうに目を細めると、ルカの指先に残ったタルトの粉に気づき、何気なく自らのハンカチを取り出して、ルカの指先をそっと拭ってやった。
「手、汚れちゃったわね。ごめんね」
慈しむような、あまりにも自然で無防備な仕草。
完全にノックアウトされたのはルカの方だった。
耳まで真っ赤に染め上げ、唇を噛み締めながら、ルカは耐えかねたようにあやの腕を掴んだ。
「……あや、あんた……ほんと、自覚ねぇの……?」
「え? なにが?」
「……なんでもねぇよ。反則だろ、そんなの……」
ルカは掠れた声で呟き、自分の額をあやの肩口に押し当てるようにして顔を隠した。
激しく乱れた少年の呼吸が、あやのドレス越しに熱く伝わってくる。
あやはきょとんとしたまま、「ルカ?」と優しくその背中をぽんぽんと宥めるように叩いた。その母性すら帯びた落ち着きが、ルカをさらに狂おしいほど溺れさせていく。
「あーあー、見ていられませんわね! 砂糖菓子より甘ったるくて胸焼けがしますわ!」
フク子が呆れたように羽をバタつかせる。
あやはルカの熱を冷ますように、穏やかな声で問いかけた。
「そういえばルカ、さっきの銀色のコイン……この世界のお金について、教えてもらえる?」
「……っ、ああ」
ルカは深呼吸をして顔を上げ、強引に真面目な表情を作ろうとしたが、まだ頬には赤みが残っていた。
「この世界『アルカニア』の通貨は『ルーチェ』だ。
銅貨が百枚で銀貨が一枚。銀貨百枚で金貨が一枚。
さっきのタルトは銀貨二枚だから、まあ庶民のちょっとした贅沢だな」
「なるほど……。じゃあ、街の統治はどうなってるの? 王様がいるのかしら」
あやの問いに、今度はフク子が胸を張って割り込んできた。
「良い質問ですわ、あやきち!
この世界を大きく二分しているのは、絶対的な軍事力で覇道を突き進む『レグリア帝国』と、神聖なるタロットの教義を掲げる『聖餐教皇庁』ですわ。
この街ヴェルダンは、どちらの支配も受けない中立の自由交易都市ですけれどね」
「帝国と……教皇庁……」
「そうだ」
ルカの表情から少年らしい照れが消え、過酷な世界を生き抜いてきた戦士の鋭さが宿る。
「この世界には、生まれながらに『アルカナの加護』を受けた規格外の怪物がいる。
……帝国を統べる冷徹なる覇王、皇帝レオンハルト。
そして、教皇庁の頂点に君臨する絶対の聖者、教皇ヴァレンティン。
あいつらは国を動かし、理を支配する本物の化け物だ」
ルカはそこで言葉を切り、あやの手首を、今度はすがるように強く握り締めた。
その瞳に宿っていたのは、強者への恐怖などではない。
あやを誰にも奪われたくないという、切迫した嫉妬と焦燥だった。
「……あや。あんたのその力……傷を癒やして、人の魂を読み解く奇跡は、絶対にあいつらに見つかっちゃいけない」
「え……?」
「あいつらは、あんたみたいな存在を絶対に放っておかない。
もし見つかったら……間違いなく奪い合って、あんたを鳥籠に閉じ込める。
……あいつらだけじゃない。さっき街の奴らがあんたを見てた目だってそうだ。あんたは綺麗すぎて、優しすぎて、誰だって手に入れたくなるんだよ」
ルカは一歩踏み込み、あやの深淵の黒い瞳を見つめた。
そこにあるのは、世界を敵に回してでも、この女性の隣を誰にも譲らないという、獰猛で純粋な雄の決意。
「俺があんたを守る。何があっても、あんたの隣は俺の場所だ。
……誰にも、あんたを渡さねぇよ」
ざわめく街の喧騒の中。
向けられた少年の重すぎるほどの熱情に、あやはただ、圧倒されるように見つめ返すことしかできなかった。




