第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(7)
至近距離で交差する視線。
肌をふわりと撫でる心地よい微風がふたりの間を吹き抜けた。
真昼の澄み渡る青空には、白磁の二つの満月が寄り添うように浮かび、木漏れ日がふたりの足元を照らしている。
立ち止まったルカは、自分より十二センチほど背の低いあやの顔を確かめるように、わずかに腰を落として身をかがめた。
百七十六センチの鍛えられた身体がぐっと近づき、あやの瞳を真っ向から覗き込んでくる。
ふっと舞い上がった風に乗り、あやの艶やかな黒髪の毛先が、覗き込むルカの白銀の前髪をかすかに撫でた。
吐息が触れ合いそうなほどの距離。
ルカのスカイブルーの瞳は、まるで初めて光を見た子供のように激しく揺らぎ、あやの顔を穴が開くほど凝視していた。
(……本当に、なんて綺麗な顔立ちなんだろう)
間近で見上げる二十歳の少年の美貌は、息を止めて見惚れてしまうほどに完成されていた。
風に遊ばれるさらさらの白銀の髪は、まるで絹糸に陽光を溶かし込んだように淡く輝いている。
陶器のように滑らかな白い肌。筋の通った高い鼻梁と、引き締まった薄い唇。
そして何より、濡れたように潤むスカイブルーの瞳は、どんな稀少な宝石よりも深く澄み渡っていた。
二十歳。
少年の純粋さと、大人の男へと変貌を遂げる途中の艶やかな色気が、危うい均衡で同居している。
引き裂かれたシャツの隙間から覗く鎖骨や、しなやかに鍛え上げられた胸板、男らしい筋張った首筋には、汗の雫が光の粒となって伝い落ちていた。
「……あんた、本当に何者なんだよ」
ルカの掠れた低音のハスキーボイスが、至近距離から耳朶を甘く痺れさせるように響いた。
その青い瞳は、先ほどまでの荒々しい警戒や冷酷な拒絶など跡形もなく、ただ熱烈に――世界で唯一の奇跡を見つめるように、あやの姿を貪欲に焼き付けていた。
漆黒の髪を風に靡かせ、純白のドレスを神聖に纏う大人の美女。
息を呑むほど完成された切れ長の艶やかな瞳と、すべてを包み込むような大人の気品。
何より、自分という泥沼の底にいた人間を、腕を引きちぎられそうになりながらも決して離さず、魂ごと抱きしめてくれた圧倒的な包容力。
ルカの喉仏が、ごくりと上下に動く。
「何者って言われてもね」
あやはふっと眉尻を下げ、困ったように柔らかく微笑んだ。
先ほどまで世界の理を書き換えていた凛々しさはどこへやら、ふわりと肩の力を抜いたその姿は、あまりにも等身大で温かい。
「さっきも言ったでしょう? 私は、吉 あや。……ちょっと前まで、書類の山と終電に追われてた、ただの三十代の会社員よ」
「は……? 会社……員……?」
「そう。あなたみたいな無鉄砲な男の子の命を拾う羽目になるなんて、昨日の夜の私に教えてあげたいくらいだわ」
あやはフッと小さく噴き出すと、右手の人差し指で、覗き込んできたルカの額をトンと軽く小突いた。
「なっ……お、男の子って言うな! 俺はもう二十歳だ、子供じゃねぇ!」
不意を突かれたルカが、カッと耳まで朱に染めて上体を起こし、半歩飛び退いた。
額を押さえ、狼狽したように視線を泳がせる。
その仕草は、先ほど魔獣を両断した凄腕の戦士とは思えないほど、年相応の少年の瑞々しさに満ちていた。
けれど、ルカの胸の奥では、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく鐘を打っていた。
額に残る、あやの指先の柔らかな感触。
大人の女性特有の、落ち着いた白檀のような微かな甘い香りが、鼻腔の奥に焼き付いて離れない。
(……あたたかい)
幼い頃から、空間を断ち切る異端の力を持つがゆえに「忌み子」と蔑まれ、利用され、裏切られ続けてきた。
誰も彼を信じず、誰も彼の心に触れようとはしなかった。
それなのに、三十二歳のこの女性は。
自分の醜い傷跡も、狂気も、自暴自棄の叫びも、すべて逃げずに受け止めてくれたのだ。
「……なぁ、あや」
ルカの声が、わずかに低く沈んだ。
まるで口の中でその名の響きを確かめ、宝物のように噛み締めるように。
ルカは迷いを捨てるように一歩踏み込み、あやとの距離を再びゼロへと詰めた。
そして、躊躇うことなく――あやのしなやかな右手を、自らの熱い両手で包み込んだのだ。
「どうして……俺を助けたんだよ」
すがるような、けれど激しい熱情を孕んだ瞳があやを射抜く。
「俺が死のうが生きようが、あんたには何の関係もなかったはずだ。
俺を助けたって、何の得にもならないのに……どうして、そこまでしてくれたんだよ」
まだ、信じ切ることが怖いのだ。
信じてしまえば、また裏切られた時に心が粉々になってしまうから。
痛ましいほどに臆病なその震えに、あやの胸がぎゅっと締め付けられた。
あやは逃げることなく、繋がれた手にそっと力を込めた。
「得とか損とか、そんな打算であなたの手を掴んだんじゃないわ」
あやはルカの目を真っ直ぐに見つめ、穏やかに、けれど決して揺るがない声で告げた。
「あなたが、生きたいって泣いてたから。
……誰にも見つけてもらえなくて、一人で震えてたからよ。
それだけで、私があなたを助ける理由には十分だわ」
「っ……!」
ルカの息が、完全に止まった。
繋がれた手から、あやの体温と、嘘偽りのない無償の愛が濁流のように流れ込んでくる。
(……あぁ、ダメだ)
ルカの視界が、ぐらりと揺れた。
胸の奥底で、頑丈に閉ざしていた心の扉が、音を立てて粉々に砕け散っていく。
手放したくない。
この温もりを知ってしまった以上、自分は二度と、あの冷たい孤独の闇へは戻れない。
この人の隣にいたい。この瞳に、ずっと自分だけを映していてほしい。
誰にも渡したくない――。
「……あんたが、俺を救ったんだからな」
ルカの声が、微かに掠れた。
握りしめた手の力が、痛いほどに強くなる。
それはもはや恩人への感謝などではない。狂おしいほどの独占欲と、少年特有の純粋で重い「執着」の光が、スカイブルーの瞳の奥でギラリと燃え上がっていた。
「勝手に俺の心に入り込んできて、勝手に生き返らせたんだ。……責任、取ってくれよ。
もう二度と、あんたを離さないから」
「え……? せ、責任って……」
迫力に気圧されたあやが目を丸くした、その瞬間だった。
「……あーあー! 聞いていられませんわね! 実に胸焼けのする安っぽい愛の告白ですこと!」
バサバサバサッ! と風情をぶち壊す羽音が響き、ふたりの繋いだ手の間へ、白いもふもふの塊が強引に割り込んできた。
「フ、フク子……!?」
「いい雰囲気のところ申し訳ありませんが、あやきち! 私の胃袋は限界を迎えていますのよ!
先ほどの《厄喰い》で濃厚な厄災の苦味を味わったら、かえって食欲に火がついてしまいましたわ! 早くカカオ70%……いえ、80%の芳醇なダークチョコを献上なさい!」
尊大に胸を反らせ、短いくちばしを突き出して抗議する白フクロウ。
その腹の羽毛は、先ほどよりも心なしか一回り丸く膨らんでいるように見える。
「ちょ、ちょっとフク子、今はそんなもの持ってないわよ! 家の冷蔵庫じゃないんだから!」
「なんですってぇぇぇ!? 万象の主たる者が、使い魔の兵糧すら確保していないとは職務怠慢ですわ! ストライキを起こしますわよ!」
「はいはい、わかったから! 街に着いたら探すから、ちょっと落ち着いて!」
あまりにも俗っぽい痴話喧嘩に、ルカがあっけにとられて目を瞬かせた。
そして――。
「……ぷっ」
堪えきれなくなったように、ルカの唇から吹き出すような笑いが漏れた。
「あっははは! なんだよそれ! フクロウがチョコ食うのかよ!? しかもストライキって何だよ!」
お腹を抱えて笑い声を上げるルカ。
その笑顔は、先ほどまでの絶望も、冷たい狂気の影も微塵も感じさせない。
青空のようにカラッと晴れ渡った、眩しいほどの笑顔だった。
「笑い事じゃありませんわ、この銀髪の餓鬼! 我が神聖なる儀式を愚弄する気ですの!?」
フク子がキーキーと怒って羽をバタつかせる。
賑やかなやり取りに、あやはホッと胸を撫で下ろした。
ふと、素肌を撫でる柔らかな空気に意識が向く。
「……そういえば、フク子。さっきから思ってたんだけど、ここ、ちっとも寒くないわね。
東京は凍えるような秋雨だったのに、ドレス一枚でも全然冷えないというか……」
「当然ですわ! この高次元の理が支配する異界『アルカニア』には、地球のような四季などという情緒不安定な寒暖差は存在しませんの!
一年中、生命が最も心地よく活動できる常温に保たれた楽園ですわ。……もっとも、甘美なスイーツの補給がなければ、精神的には地獄ですけれどね!」
ふんと胸を張るフク子に、あやは「なるほど、四季がないのね……」と異世界の気候に深く納得した。
「……ねえ、ルカ。笑ってるところ悪いんだけど、この近くに人が住んでる街ってあるかしら?
私、この世界のこともよく分からないし……フク子のチョコを探すついでに、いろいろ準備を整えたくて」
あやがそう尋ねた瞬間、ルカの瞳がパッと輝いた。
大型犬が嬉しそうに尻尾を振るかのように、ルカは身を乗り出す。
「あるぜ! この森を東に抜けたところに、交易都市『ヴェルダン』がある!
あそこなら美味い飯屋も服屋もあるし、あんたのその……フクロウのチョコだっけ? そんな珍しい菓子だって絶対見つかる!」
ルカはあやの手をぎゅっと握り直すと、得意げに胸を張った。
その顔には、大好きな年上の女性の前でいいところを見せたい少年の、純粋な独占欲と情熱が溢れ出していた。
「俺が案内してやるよ。あんたの行きたいところなら、世界の果てまでだって連れてってやる。
……だから、ずっと俺の隣にいろよ、あや」
耳元で囁かれた甘く熱い約束に、あやの心臓がトクンと小さく跳ねた。
二つの満月が見守る中、運命の歯車は、甘く危険な旅立ちへと静かに動き出していた。




