第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(6)
吹き抜ける風が、ピタリと止んだ。
白磁の二つの満月が中天から冷ややかに見下ろす中、断崖の空気が張り詰める。
鼻腔を突くのは、魔獣の口から漏れる腐肉の悪臭と、剥き出しになった赤土の乾いた匂い。
背後は、踏み外せば命のない奈落の断崖絶壁。
前方は、扇状に散開し、じりじりと距離を詰めてくる十数体の魔獣。
ふたりと獣たちを隔てる距離は、わずか十メートルほどしかなかった。
「おい、あんた。身体、動くのかよ」
わずかに腰を落とし、重心を低く構えたルカが、あやの斜め前方へ半歩滑り出た。
白銀の髪の隙間から覗く横顔は鋭利に研ぎ澄まされ、先ほどまで自ら死を選ぼうとしていた自暴自棄の気配は微塵もない。
完全に癒えた四肢の感覚を確かめるように、ルカは右手を軽く握り直す。
その指先には、空間そのものを切り裂くような、微細な風の刃がパチパチと音を立てて渦巻いていた。
「動くわよ。さっき自分で治したんだから」
「……へえ。傷を治すだけじゃなくて、口の減らないところも大したもんだ」
ルカの唇の端が、不敵に吊り上がった。
けれど、その視線は魔獣の群れから一ミリも逸れていない。
「あいつら、群れの統率が取れてる。リーダーはあの二本角のデカブツだ。
……左右から同時に仕掛けてくるぞ。あんたは俺の背中から離れるな」
「待って、ルカ」
あやは左手で星空のアタッシュケースを抱え直すと、右手の指先に挟んだ『0:愚者』のカードを胸の前に掲げた。
カッと、切れ長の瞳が黄金色に輝く。
《万象読解》が、極限まで研ぎ澄まされた集中の中で起動した。
(――視える)
あやの網膜の上で、世界が幾何学的な光の線となって展開する。
獣たちの筋肉の微細な収縮。
重心が右足から左足へと移るわずかな沈み込み。
開かれた顎から漏れる呼気の方角。
すべての情報が、コンマ数秒後に訪れる「攻撃の未来軌道」として、あやの脳内に鮮明に描かれていた。
「来るのは左右同時じゃないわ!
まず左の黒影が跳躍、その〇・三秒後に右の長尾が足元を狙う牽制よ。
本命は――二体が交差した瞬間、真正面から突っ込んでくるリーダーの角!」
「……は!?」
ルカが瞠目した、その刹那だった。
ギャァッ!!
あやの言葉と寸分の狂いもなく、左翼の魔獣が岩場を蹴り、宙を裂いてルカの頭上へと襲いかかってきた。
同時に、右翼の魔獣が低く地を這うように滑り込み、鋭利な尾を鎌のように薙ぎ払ってくる。
「左を躱して、右を踏み台にしなさい! ルカ、飛んで――ッ!!」
あやの凛とした叫びが、風の空白を突き抜けた。
普通なら、初対面の女の指示など信じるはずがない。
だが、ルカの魂はすでに、あやの《万象読解》が放つ絶対的な真実の響きに呼応していた。
ルカは迷いを捨て、左からの爪撃を紙一重で身を捻って躱すと、足元へ滑り込んできた右の魔獣の頭頂部を、黒革のブーツで容赦なく踏み抜いた。
ドガンッ!
骨の砕ける鈍い音が響き、魔獣が地面へと叩きつけられる。
その反動を利用して、ルカの身体がふわりと重力を無視するように跳ね上がった。
直後――ドォォォンッ!!
ルカが先ほどまで立っていた空間を、二本角のリーダー格が、音速に近い突進で突き破っていた。
岩肌が抉れ、無数の破片が弾丸のように四方へ飛び散る。
あやの読解がなければ、ルカの胴体は確実にあの二本角で串刺しにされていたはずのタイミングだった。
「うそだろ……完璧に読み切ってやがる……!」
空中で身を翻しながら、ルカの胸が激しく高鳴った。
恐怖ではない。背筋を駆け上がる、痺れるような歓喜。
「あやきち、追撃ですわ! あの獣、突進の余波で体勢を崩していますわよ!」
あやの肩の上で、フク子が翼を広げて叫ぶ。
言われるまでもなく、あやはすでにカードの力を解放していた。
「0の理よ、解き放たれなさい――《無垢なる跳躍》ッ!」
あやが掲げた正位置の『愚者』から、純白の風の奔流が螺旋を描いて吹き荒れた。
その風は、空中にいたルカの全身をふわりと包み込む。
足場のない虚空。落下するはずのルカの足裏に、まるで透明な階段が存在するかのように、風の足場が幾重にも形成されたのだ。
「なっ……空中を歩ける……!?」
ルカの瞳に、子供のような純粋な輝きが宿った。
何者にも縛られず、何処へでも行ける。
常識という重力すら軽やかに嘲笑う、愚者本来の「絶対的な自由」の力。
あやの肯定によって、その封じられていた才能が、完全に世界の法則を上書きしていた。
「ハハッ……最高だな、あんた!!」
ルカは空中に生まれた風の足場を力強く蹴りつけた。
突進の空振りで硬直していた二本角の巨獣の真上へ、一瞬で急降下する。
ルカの両手に渦巻く風の刃が、青空の光を反射して白銀の巨大な鎌へと膨れ上がった。
「俺の行く手を塞ぐんじゃねぇよ、愚鈍な獣が――ッ!!」
閃光のような一閃。
空間そのものを断ち切る鋭利な風の刃が、二本角の巨獣の脳天から両断するように振り下ろされた。
ズバァァァンッッ――!!
肉を裂き、骨を断ち、大気を両断する凄まじい衝撃波が断崖に轟き渡る。
二本角の巨獣は断末魔の叫びを上げる間すらなく、その巨躯を左右へと裂かれて崩れ落ちた。
ドサリ、と音を立てて大地に横たわるリーダーの死骸。
残された魔獣たちが、その光景に恐怖で喉を鳴らした。
リーダーを瞬殺され、空中を軽やかに舞い降りてきた白銀の少年に、もはや立ち向かう意志など残されていない。
「ギャルルル……ッ」
「ヒィンッ……!」
魔獣たちは蜘蛛の子を散らすように背を向け、原生林の奥深くへと我先にと逃げ去っていった。
静寂が、戻ってきた。
遠くでざわめく巨木のざわめきと、断崖を吹き抜ける涼やかな秋の風。
舞い散る砂埃が、真昼の陽光に透けてキラキラと輝いている。
「……ふぅ」
あやはカードを下ろし、小さく息を吐いた。
緊張が解けた途端、全身からふっと力が抜けそうになる。
トン、と軽やかな着地音が響いた。
数メートル先に降り立ったルカが、風の刃を消し、ゆっくりと振り返る。
その白銀の髪が、風になびいてさらさらと揺れていた。
ルカは無言のまま、ゆっくりとあやへと歩み寄ってきた。
そのスカイブルーの瞳は、先ほどまでの警戒や冷酷さなど跡形もなく、ただ呆然と――そして、何かに強く心を奪われたように、あやの姿を焼き付けていた。
純白のドレスの裾を風になびかせ、凛と佇む、三十二歳の大人の女性。
その圧倒的な美貌と、自分を泥沼の絶望から引きずり上げ、魂ごと肯定してくれた底知れない温もり。
「……あんた、本当に何者なんだよ」
あやのわずか一歩手前で足を止めたルカの声は、微かに震えていた。
その距離は、お互いの吐息がかかりそうなほどに近く。
見上げるルカの青い瞳の奥に、あやの姿だけが、熱を帯びて鮮明に映り込んでいた。




