第1章: 0の愚者――風と絶望の断崖(5)
――問いかける。汝、この歪みし放浪者の魂を、如何にして肯定するか――。
頭蓋を直接揺さぶるような、厳格で透き通った声。
それは世界そのものが、あやというひとりの人間の「覚悟」を品定めしているかのようだった。
吹き荒れる突風が、崖の縁で耐えるあやの皮膚を叩く。
左腕一本で青年の体重を支える肩の関節は、すでに限界を迎え、肉の裂けるような悲鳴を上げていた。
膝の擦り傷から流れた生温かい血が、冷え切った岩肌を濡らしていく。
(肯定する……? 私が……?)
右手の指先に触れているカードから、ルカの魂の輪郭が、痛烈なリアリティを伴って伝わってくる。
縛られることを拒み、誰の型にも嵌まらず、それゆえに異端として排斥され続けた孤独。
「常識」という名の檻に閉じ込められそうになるたび、彼は爪を立てて牙を剥き、逃げ出し、傷だらけになってきたのだ。
それは、あや自身が押し殺してきた感情そのものだった。
社会の空気を読み、波風を立てないように微笑み、誰かの都合のいい駒として自分をすり減らしてきた三十二年間。
「大人」になるということは、自由を諦めることだと信じ込まされてきた。
けれど、目の前の青年は――傷だらけになり、死の淵に立たされてなお、自分を偽ることを拒んでいたのだ。
(……大人たちの言いなりにならず、ひとりで抗い続けたあなたの生き方は、この世界の人たちから見れば『無謀で、周りを困らせるだけの愚かな生き方』に見えたのかもしれない。
でも、誰にも染まらずに自由を求めて叫んだあなたの魂を、私は絶対に否定しない――)
あやは歯を食いしばり、右手でカードをさらに強く、自らの血が滲むほどに握りしめた。
(だけど、誰の言いなりにもならず、何者にも染まらないからこそ――彼は何処へだって行けるんじゃないの!)
誰かが引いた安全なレールを歩くことだけが、正しいわけじゃない。
白紙の未来へ、恐れを知らずに最初の一歩を踏み出す力。
ゼロという数字は、「無」であると同時に、「無限の可能性」そのものなのだから。
(彼の自由を、私が肯定する。
この世界が彼を拒むなら――私が、彼のありのままを全部受け止めてみせるわッ!!)
心の中で叫んだ、その刹那だった。
――汝の解、我が理と共鳴せり――。
ドクンッ――!!
世界が静止したかのような錯覚。
あやの胸の奥底、魂の中心に眠っていた「何か」の封印が、音を立てて弾け飛んだ。
アタッシュケースの中の『0:愚者』のカードが、目も眩むような黄金の燐光を噴き上げる。
それと同時に、あや自身の身体の内側から、滾々(こんこん)と湧き出る泉のように、温かく神聖な光の奔流が溢れ出した。
(……あたたかい……?)
それは、世界の理を読み解くだけではない。
歪んだ命を、傷ついた肉体を、本来あるべき調和の姿へと巻き戻す――規格外の【万象治癒】の奇跡だった。
シュウゥゥッ……と、微かな蒸気のような光の粒子が立ち上る。
最初に癒えたのは、あや自身の身体だった。
限界を迎えて千切れかけていた肩の筋肉が、骨の軋みが、柔らかな黄金の光に包まれる。
ズキズキと脈打っていた激痛が引いていき、断裂しかけていた繊維が瞬く間に再生していくのが分かった。
岩肌に削り取られていた両膝の皮膚も、真新しい白磁の肌へと一瞬で修復されていく。
痛みが消えるだけではない。
全身の細胞の隅々まで、満ち足りた魔力とエネルギーが漲っていくのが、生々しいほどに実感できた。
「な、に……これ……?」
虚空から見上げていたルカが、息を呑んで絶句した。
あやの両腕から溢れ出した黄金の光は、繋いだ手首を通じて、濁流のようにルカの身体へと流れ込んでいたのだ。
ジュワッ、と心地よい熱がルカの五臓六腑を駆け巡る。
「っ……あ……ぐ、ぅ……!?」
ルカの喉から、苦悶とも陶酔ともつかない声が漏れた。
魔獣の鉤爪によって全身に刻まれていた無数の裂傷が、肉の奥底から泡立つように塞がっていく。
骨折していた肋骨がカチリと正しい位置へと噛み合い、失血によって鉛のように重かった四肢に、濁流のような生命力が蘇っていく。
肉体だけではない。
あやの光が触れるたび、ルカの心の奥底にこびりついていた「裏切りの冷たい記憶」が、春の陽光を浴びた残雪のように、じわりと溶かされていく感覚。
(なんだよ……これ……)
ルカのスカイブルーの瞳が、激しく震えていた。
痛みが消えていく。
ずっと凍えきっていた胸の芯が、痛いほどに熱い。
自分を殺そうとしていたはずの断崖で。
見ず知らずの、泥臭く必死な瞳をした美しい女に、魂ごと抱きしめられているかのような――圧倒的な受容と温もり。
「……っ、しっかり掴まりなさい、ルカ!!」
あやの凛とした声が響いた。
痛みの消え去った両腕に、驚くほどの膂力が宿っている。
あやは崖の岩肌を爪先で蹴り、満ち溢れる魔力とともに、ルカの身体を一気に引き上げた。
フワリと重力を失ったかのように、ルカの身体が宙を舞い、断崖の平地へと引き戻される。
ドサリ、と砂埃を上げて岩場に着地するふたり。
荒い息を吐きながら、ルカは自らの両手を見つめた。
傷ひとつない。それどころか、かつてないほどに身体が軽く、研ぎ澄まされていた。
「あんた……一体、何者なんだよ……」
掠れた声で呟くルカ。
だが、その瞳にはもう、先ほどまでの冷酷な拒絶の色はなかった。
ただただ困惑と、得体の知れない衝撃に胸を突かれたように、目の前のあやを凝視している。
しかし、世界はふたりに息をつく暇を与えなかった。
グルルルァァァッ――!!
地響きのような唸り声。
フク子の《厄喰い》によって体勢を崩していたリーダー格の黒獣が、赤く濁った双眸に猛烈な殺気を滾らせ、再び立ち上がったのだ。
その背後には、視力を取り戻した残りの魔獣たち。
傷を癒やされ、生命力を爆発させたふたりの極上の「匂い」に飢えた獣たちが、涎を滴らせながら、逃げ場のない断崖へとじりじりと包囲を縮めていた。
「あやきち、感傷に浸るのは後ですわ!」
フク子が肩の上で羽を逆立て、嘴を鳴らす。
「あの獣ども、主の極上の生命波動に当てられて完全に発情……ゴホン、飢餓状態に陥っていますわよ!」
「……もう、フク子は一言余計なのよ」
あやは乱れた黒髪を手櫛で払い、純白のドレスの裾を翻してすっくと立ち上がった。
その右手には、黄金の輝きを放ち、いまや完全に「正位置」へと反転した『0:愚者』のタロットカード。
ルカが息を呑み、あやの隣へと並び立つ。
その少年の瞳には、先ほどまでの死の影は微塵もなく――何者にも縛られない、天衣無縫の光が宿り始めていた。




