第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(4)
崩落と、跳躍と、閃光。
そのすべては、瞬きひとつの刹那――完全に「同時」に起きていた。
あやはすでに、青年のわずか二歩手前まで間合いを詰めていた。
だからこそ、足元の岩盤が轟音を立てて砕け散り、青年の身体が重力に引かれて沈みかけたそのコンマ数秒、あやの身体は考えるより先に前へと弾け飛んでいた。
視界の端、あやの無防備な背中を狙って跳びかかろうとした魔獣の群れ。
それを迎撃すべく、あやの肩から羽ばたいたフク子が、額の満月チャクラから真昼の陽光すら焼き尽くすほどの閃光を炸裂させたのだ。
「ギャルルッ!?」
「ガァッ――!?」
網膜を焼かれた魔獣たちが悲鳴を上げて前足で目を覆い、地面を転がる。
その光背を背に受けながら、あやは自ら崖の縁へとダイブしていた。
ドガッ、と鈍い衝撃が胸と膝を強打する。
鋭利な花崗岩の角が純白のドレスの裾を裂き、あやの膝の皮膚を容赦なく削り取った。
下を見れば、渦巻く雲海と鋭利な岩峰が口を開ける、底なしの奈落。
内臓がひっくり返るほどの高度の恐怖をねじ伏せ、あやは伸ばした両手を虚空へと突き出した。
バチンッ――!!
肉と肉が激突する、生々しい破裂音。
落下しかけていた青年の右手首を、あやの細い指先が、骨が軋むほどの力で掴み取った。
「ぐ、うぅっ……!?」
落下の凄まじい運動エネルギーが、あやの右肩の関節を限界まで引っ張り上げる。
脱臼しかけるほどの激痛。ずしりと腕にかかる青年の体重。
引きずり落とされそうになる身体を、あやは崖の岩肌に爪を立て、胸を擦りつけながら必死に踏みとどまらせた。
荒れ狂う断崖の突風が、ふたりの間を吹き抜けていく。
あやの乱れた黒髪が視界を塞ぎ、眼下でぶら下がる青年の白銀の髪が無慈悲に散る。
「……っ、あんた……バカなのか……!?」
虚空から見上げる青年の声は、風にかき消されそうなほど掠れていた。
そのスカイブルーの瞳に浮かんでいたのは、救われたことへの感謝などでは断じてない。
見知らぬ他者に、あまつさえ死に瀕してまで踏み込まれたことへの、激しい怒りと底知れない不信感。
「離せよ! なんで見ず知らずの俺なんかのために、そこまでしてんだよ!
同情か? 偽善か? それとも、俺の首にかかった賞金首のギルド報酬でも狙ってんのか!?
適当な綺麗事並べて人の心に土足で上がり込んできて……聖女気取りかよ、反吐が出るッ!」
青年の手首が、あやの拘束を振りほどこうと乱暴に暴れる。
その反動で、あやの身体がさらに数センチ、ザザッと崖の外へと滑り落ちた。
青年の体重はおよそ六十キロ台後半。
鍛え上げられた男性の肉体を、三十二歳の女の腕力ひとつで支え続けること自体、物理的な限界を超えている。
(……痛い、腕が……ちぎれる……!)
肩の筋肉が悲鳴を上げ、視界がチカチカと明滅する。
だが、その激痛の奥底から、あやの脳裏に直接流れ込んできたものがあった。
触れ合っている手首の皮膚――そこから、《万象読解》の力が、青年の魂に刻まれた「過去の痛みの記憶」を無秩序に流し込んできたのだ。
(あいつは化け物だ。空間の境界を狂わせる忌み子だ)
(神童などと持て囃したのは昔の話さ。あんな危険な力、処分してしまえ)
(すまないな、ルカ。お前の首を差し出せば、俺たちの街は救われるんだよ)
信じていた仲間、背中を預けた大人たち、笑いながら毒の刃を向けてきたかつての友。
誰も彼を信じなかった。
彼が生まれ持った「枠に収まらない自由」を、誰も愛そうとはしなかった。
だからこそ、青年――ルカは、世界を拒絶し、心を氷で閉ざすことでしか自分を保てなかったのだ。
そんな男が、初対面の女の「それっぽい言葉」ひとつで心を許すはずがない。
十二年間、東京のオフィスで他人の欺瞞と打算に晒され続け、すり減ってきたあやには、その痛烈な防衛本能が痛いほど理解できた。
「離すわけ……ないでしょうが……ッ!」
あやは激痛に涙を滲ませながら、もう片方の左手も伸ばし、青年の手首を両手で力任せに抱え込んだ。
「賞金なんて知らないわよ……! 私は昨日まで、港区で残業代も出ないまま終電まで働いてたしがないOLよ!
あなたの過去なんて、これっぽっちも知らない!
だけどね――誰にも信じてもらえなくて、一人で全部抱え込んで、夜の雨の中で泣きそうになる気持ちくらいは、痛いほど知ってるのよッ!!」
「……っ!?」
ルカのスカイブルーの瞳が、凍りついたように見開かれた。
嘘や打算を張り巡らせた人間の目ではない。
自分と同じ「泥水をすすり、裏切られ、それでも誰かのために耐え続けてきた者」だけが持つ、生々しい魂の痛覚。
それが、手首のぬくもりを通じて、ルカの凍りついた胸の奥へと真っ直ぐに突き刺さっていた。
だが、感傷に浸る猶予はなかった。
背後で、フク子の目眩ましの閃光から立ち直った魔獣たちが、憤怒の咆哮を轟かせたのだ。
中でも一際巨大な、額に二本角を持つリーダー格の黒獣が、崖の縁で両手が塞がっているあやの無防備な背中めがけ、音もなく跳躍していた。
「しまっ――! おい、避けろッ!!」
ルカの顔色が蒼白に染まる。
「避けられるわけないでしょ、手を離したらあなたが落ちるじゃないッ!!」
絶体絶命。
魔獣の漆黒の鉤爪が、空気を切り裂いてあやの華奢な背中へと振り下ろされようとした、その刹那――。
「我が主の美しい背中に、その薄汚い前足を近づけるんじゃありませんわ――ッ!!」
頭上から急降下した白い影。
フク子の翼の裏に広がる紫紺の星空が、何十倍もの巨大な夜空となって虚空に展開した。
「不吉を喰らい、厄災を呑む!
高次元スピリットの胃袋を、甘く見るんじゃありませんわよ――《厄喰い(カラミティ・イート)》ッ!!」
虚空に、紫色の巨大な重力渦が発生した。
魔獣が放った殺気、怨嗟、そして振り下ろされた爪の運動エネルギーそのものが、強烈な引力によって強引にねじ曲げられ、フク子の額の満月へとズズズッと吸い込まれていく。
ギャオォォォンッ!?
前進の勢いを根こそぎ喰らわれた巨獣が、バランスを崩して前のめりに地面を転がった。
「あやきち、今ですわ! アタッシュケースを!!」
フク子の叫びが飛ぶ。
崖の縁、あやの右肘のすぐ横に転がっていた黒革のケース。
その蓋の隙間から、まるで生き物のように漏れ出す金色の光。
あやはルカの手首を左腕一本で必死に抱え込み、擦りむけた右手でケースの中へと指を滑り込ませた。
指先に吸い付くように触れたのは、先ほど浮き上がったあのカード。
『0:愚者(The Fool)』。
カードの表面が、あやの皮膚の熱を吸って激しく明滅している。
だが、まだ黒い澱みは消えていない。
カードはいまだ、逆さまのままだった。
「……頼むから、力を貸しなさい……ッ!」
あやがカードを強く握りしめた瞬間、脳裏に声が響いた。
それは、世界の法則を司る、冷厳なるアルカナの理。
――問いかける。汝、この歪みし放浪者の魂を、如何にして肯定するか――。




