第1章:0の愚者――風と絶望の断崖(3)
「あやきち、急ぎなさい! あの波動の主、魂の火が今にも消えかけていますわ!」
「言われなくても……っ!」
あやは純白のドレスの裾を片手でさばき、右手で星空のアタッシュケースの取っ手を強く握りしめて地を蹴った。
驚くべきことに、足取りは羽毛のように軽かった。
ハイヒールでオフィス街をすり足で歩いていた時とはまるで違う。足裏が地面を捉えるたび、柔らかな魔力の粒子がクッションのように衝撃を和らげ、身体を軽やかに前へと押し出してくれる。
バサリ、と紫紺の星空の翼が頭上を旋回し、フク子が器用にあやの左肩へと滑り込んできた。
嘴には、どこに隠し持っていたのか分からないハイカカオチョコの包み紙がしっかり挟まっている。
「チョコを口にくわえたまま喋らないの!」
「失礼な! 高次元スピリットのマルチタスク能力を侮らないでいただきたい! ほら、森が抜けますわよ!」
視界を遮っていた巨木のトンネルが一瞬で途切れ、目の前が白熱した光に染まった。
吹き抜ける、肌を裂くような猛烈な突風。
木々を抜けた先に広がっていたのは、目が眩むほどの底なしの断崖絶壁だった。
遥か眼下には、雲海を突き抜けて尖る黒い岩峰の群れ。足を踏み外せば、骨の一片すら残らない奈落の底。
そして――。
崩落しかけた崖の最先端に、その「男」は立っていた。
(……綺麗……)
突風にあおられる視界の中、あやの喉から思わず息が漏れた。
風に乱れる、絹糸のような白銀の髪。
全身には無数の裂傷を負い、純白のシャツは赤黒い血で濡れそぼっている。
しかし、その凄惨な姿を覆い隠すほどに、青年の容貌は息を呑むほどに美しかった。
彫刻のように整った輪郭に、深く長い睫毛。
そして何より、虚空を見つめるその瞳――どんな宝石よりも透き通った、哀しいほどに鮮やかなスカイブルーの双眸。
青年の足元には、鋭利な黒い爪を持つ巨大な魔獣が数体、喉笛を切り裂かれて息絶えていた。
だが、青年を包囲している魔獣はまだ十数体も残っている。赤い凶眼をぎらつかせ、唸り声を上げながら、じりじりと包囲を縮めていた。
絶体絶命。
けれど、青年は迫り来る魔獣など、まるで視界に入っていなかった。
ただ、何もない奈落の虚空を見つめ、どこか子供のように無邪気で、狂気じみた笑みを口元に浮かべている。
「……はは。なんだ、ここまでか」
青年が、ふわりと片足を崖の外へと宙に浮かせた。
自ら奈落へ飛び降りようとしている。
その瞬間、あやの視界が黄金の光に弾けた。
《万象読解》が、青年の全身を取り巻く「目に見えない魂の波長」を強制的に視覚化する。
青年の頭上に、巨大なタロットカードの幻影が逆さまに浮かび上がっていた。
断崖絶壁を歩く極彩色の道化師――『0:愚者(The Fool)』。
しかし、そのカードは黒い靄を吹き出し、不吉に反転している。
【愚者・逆位置】――「無謀」「現実逃避」「行き場のない放浪」「誰にも理解されない絶望」。
青年の笑みの奥、唇の微かな震え、瞳の奥底で渦巻く孤独な悲鳴が、あやの胸へと直接雪崩れ込んできた。
(この人……死にたいんじゃない!)
会社で、誰にも本音を言えずに一人で残業を背負い込み、夜の雨の中で泣きそうになっていた自分自身の姿が、崖っぷちの青年に重なる。
「――そこまでになさいッ!!」
凛とした、透き通るような女の声が、絶壁の風を真っ二つに切り裂いた。
グルァッ!? と魔獣たちが一斉にぎょっとして振り返る。
そして、崖の縁で飛び降りようとしていた青年もまた、弾かれたようにそのスカイブルーの瞳を見開いて振り返った。
そこに立っていたのは――。
突風に純白のドレスを美しく波打たせ、夜空のアタッシュケースを携えた、圧倒的な美貌を誇る大人の美女。
そしてその肩で、黄金の満月を誇らしげに輝かせる奇妙な白フクロウ。
「……女……?」
青年が、呆然と唇を零した。
血の匂いと死の狂気が充満するこの処刑場のような断崖に、あまりにも不釣り合いな、神々しいまでの美しさを湛えた女性。
「あんた……誰だよ。見ない顔だな。死にたくないなら、とっとと逃げな」
青年はすぐに自嘲の笑みを作り、冷たく言い放った。
「俺は今から、この退屈で息の詰まる世界の果てへ行くとこなんだよ。誰も俺を縛れない、何もない奈落の底へな!」
無理に作った軽薄な笑顔。
だが、その瞳の奥は、凍てつくように冷え切っていた。
あやは逃げるどころか、ドレスの裾を踏みしめ、魔獣の群れを完全に無視して青年へと真っ直ぐに歩みを進めた。
「嘘をつかないで」
「……あ?」
「あなた、本当は死にたいわけじゃないでしょう?」
静かな、けれど魂の芯を撃ち抜くような声音。
青年がピクリと眉を跳ね上げた。
「あんたに何が分かる。初対面の女に――」
「分かるわよ。あなたの魂が、痛いほど泣き叫んでいるもの」
あやはアタッシュケースを抱え直し、青年の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「自由になりたかったんでしょう? 誰も信じてくれない世界で、誰にも理解されない孤独に耐えかねて……。でもね、世界の誰も追ってこられない場所へ逃げ込むのは、『自由』じゃないわ」
「黙れ……ッ!」
「それはただの、寂しさからの逃避よ! あなたのその恐れを知らない心は、自分を殺すためじゃなく、誰も見たことのない新しい世界へ踏み出すためのもの(正位置)のはずよ!!」
青年のスカイブルーの瞳が、激しく揺らいだ。
誰にも見せたことのない、心の最深部にある柔らかい傷口。
それを、初対面の美しい女に、あまりにも的確に、そして温かく触れられた。
「あんた……一体……」
息を呑んだ青年の足元で、メキョ、と不吉な亀裂の音が響いた。
限界を迎えていた断崖の岩盤が、青年の体重を支えきれず、一気に崩落したのだ。
「しまっ――」
青年の身体が、ふわりと宙に浮いた。
重力に引かれ、背後から奈落の底へと真っ逆さまに落ちていく。
「フク子!!」
「心得ましたわ! 愚民の魂を喰らい、我が力となしなさい――ッ!」
フク子が肩から宙へと羽ばたいた。
額の満月チャクラが、真昼の陽光すら呑み込むほどの圧倒的な黄金の閃光を放つ!




